今更ですが三国時代の呉に関してです。呉は天下を取るつもりが有ったのでしょうか。
まあ、無かったということは無いと思いますが、蜀ほど使命感があるとは思えず、「あわよくば」程度の感じで、基本的には江東、江南の主で満足していたように思えます。
特に孫権の晩年以降は。
皆さん、どう思われます?
あくまでも私見にすぎませんが、私は孫権はヤル気満々だったと考えています。
以下に理由を挙げます。
1.周瑜・魯粛ら対外積極論者を重用した事。
2.年号を制定し、帝号を称した事。
3.天下平定を成し遂げるために考えられるあらゆる手を打った(打とうとした)痕跡がある事。
まず1ですが、そもそも天下を平定する意志が無ければ魯粛を使う事そのものが出来ません。彼は208年の段階で早々と「劉氏に代わって天下を平定すべき」と進言しています。同時期に周瑜も「荊州・益州を制圧し馬超と同盟して長安に攻め上がる」という壮大な戦略構想をぶち上げています。曹操の軍門に降るべきという張昭はじめ大多数の名士の意見を突っぱねてまで少数派である彼らの意見を採用しているのに「あわよくば」とか「ヤル気ない」はずがありません。
次に2ですが、年号の制定は皇帝のみに許された「時を支配する象徴的特権」であり、王程度に許されるものではありません。しかし孫権は魏帝国成立直後の221年に、魏の呉王の身でありながら年号を制定しており、遅ればせながら229年には正式皇帝として呉帝国を創建しました。
これらは何を意味するのか。孫権・周瑜・魯粛らは知っていたのです。始皇帝は周室の血を引いていない事を。劉氏は秦帝室の血縁ではない事を。曹氏は劉氏の臣下に過ぎなかった事を。
そう、天下を平定するための資格などなく、実力さえあれば誰にでも可能なのだという事を。
そして、孫権が「天下平定」を実現するために行なったのが3です。先の回答者さんが挙げた公孫淵との連携(遠交近攻策)はもちろん、蜀漢との国交維持や連携、合肥や濡須への度重なる出兵、やれる事は何でもやっています。もちろん十二分の努力かと言えば全くもって足らない訳で、実際に見るべき成果が挙がりませんでしたが、少なくとも努力の跡は窺えます。
ではなぜ孫権は充分な努力が出来なかったのか。
大別して3つあります。
1.魏呉の国力差。
2.山越という内憂。
3.長江の存在。
1は言うまでもない話です。皆様お書きの通り、人口密度から農業生産力から何から全く魏には及びません。しかも、中原の動乱を避けて江南に逃れていた士大夫や農民達は、華北が安定するにつれてかなりの数が北帰したと考えられています。ただでさえ少ない人口が減り、その分敵対国の人口が増えるのですからダメージ倍増です。
2も皆様お書きですが、揚州・荊州・交州にはかなりの数の不服従民が存在し、これに対する呉の労力と費用はとんでもない割合を占めています。起用された主な人物だけ見ても黄蓋、太史慈、賀斉、陸遜、凌統、駱統、歩隲、呂岱、鍾離牧などかなりの豪華メンバーです。逆に言えば対外戦略に用いるべき彼らを国内対策に回さなければならないほど厄介な問題だった訳で、しかも彼らをもってしても解決出来なかったのです。
3については意外に思われるかも知れませんが、長い中国史上で長江を南から北に渡って天下を平定したのは唯一人、朱元璋のみです。
それほどまでに長江は雄大で堅固な城壁でした。守るにも、攻めるにも。
さて、私も孫権は途中で諦めたのだろうと推測しています。
根拠として、
1.後継者問題や皇后冊立問題を起こし、しかもそれを放置した。
2.対外戦略が次第に行き当たりばったりになっている。
3.目の前の問題に気を取られて長期的視野が消え失せている。
が挙げられます。
あれほど積極的だったはずの孫権はなぜ諦めてしまったのでしょうか?私は、その最大の原因は張昭と孫登の死にあると考えています。
正史『三國志』を見る限り、孫権と張昭の関係は必ずしも良好とは言えず、むしろ孫権に疎まれていますし、2人して大人げない意地の張り合いも多々見られますが、実は張昭は孫権の父親代わりだったのではないかと思っています。
孫堅の死は孫権がまだ10歳の時です。父に習うべき事を習わずに育った子供っぽい孫権を、張昭は兄孫策の遺命もあってよく補佐しています。さらに張昭は父と同い年。頭の上がらぬ「亜父」だったのだと思います。
また孫登は人格・見識・能力ともに優れた最良の後継者でした。彼が生きていた間は孫権も至極真っ当な英明君主だったのは誰の目にも明らかです。せいぜい狩猟癖や酒癖が悪かった程度でした。
しかし2人の死後は、呂壱の信任、二宮の変や陸遜の問責、孫亮(10歳)の立太子など、耄碌したとしか言い様のない有り様です。
言い換えるなら、張昭の死で箍(たが)が緩み、孫登の死で孫権の中で「何か」がぼきりと折れた。
そういう事ではないでしょうか。
孫亮・孫休の時代は奸臣がはびこり、長期的対外戦略など見る影もありません。孫晧(皓ではない)は頑張りましたが、彼はそれ以上に呉を潰したかったとしか思えません。
孫権が「諦めた」瞬間に、呉の命運も定まったのだと思います。
「無かったということは無い」でしょうね。まぁ「あわよくば」という消極的な姿勢というより「常に隙を狙っていた」という感じだと思いますけど。
積極的な外征を「しなかった」のではなく「出来なかった」のでしょう。地元豪族の存在もさることながら、やはり江東の大半は未開の蛮地。孫策の江東制圧時に王朗が海路伝いに逃げたことからも分かるように、内陸部は山越の庭みたいなもんだったんでしょう。諸葛格伝からも呉は最後まで彼らを平定出来なかったであろうことが推測できます。そんな状態で頻繁に外征など出来なかったんだと思います。
また、よく孫権後期の失策の一つに挙げられる公孫淵との同盟画策。あれだけ見ても江東の主で満足してる程度とは思えません。公孫淵の人となりを知らなかったことやあまりに遠すぎる相手との同盟とはいえ、魏の後方を脅かす勢力を積極的に支援しようとする狙いが見て取れます。蜀のように真正面から攻め込むのだけが魏を倒す手段ではないでしょう。呉は呉で兵を動かす以外の方法も考えていたんだと思います。合肥、合肥新城の争いでも偽の投降など絡め手が目立つので、言い方によっては「あわよくば」ですが…
ただ「孫権の晩年以降」と仰るように、公孫淵との同盟が失敗に終わった時点で打開策が尽き果てていたような感じはしますね。諦めとは言いませんが、もはや従来通りの安全策以外の方法を考えつかなった。殷礼が述べた全国力で攻めるなどもっての他。負けたら滅亡です。諸葛亮ですら負けない戦いに終始してたのに、そんな真似が出来ようはずも無いです。
孫亮の代では毋丘倹、諸葛誕の反乱と二度も大きなチャンスがあり、そのどちらとも出兵してますね。権力を握っていた孫峻も徐州攻略を画策したりしてます。続く孫休には天下への意欲が無かったと断言しますw孫晧は北伐よりも離反していた交州の平定に傾注していたような感じがします。放置しておいたら北伐どころじゃないわけですし。
要は天下を狙ってはいたものの、孫権の末期ぐらいまでには既にドン詰まりに陥っていた、という感じではないでしょうか。以降もチャンスでは常に出兵してますが、いずれも魏との兵力差と内紛で失敗している。ちなみに私は諸葛亮が死んだ後の蜀に「使命感」があったとは思ってないです。
確かに、リクソンは、あまり攻めないタイプだと思います。ゴでは、豪族との協力があって、成り立っており、意見をきかなければいけなかったようです。それにソンケンは、戦上手では無いので、しばらくはリクソンの言う事きくしかないと。じきに、攻めたくなり、リクソンと合わなくなり、リクソンは、有力豪族、陸家の人間でソン家と陸家の中が悪くなりゴは、実質その時点で崩壊していたということ。三国の中で最後まで、残ったのは、ギが内紛で、ゴに攻めて来るどころの話では無かったようです。ギがシンになり国がまとまったため、攻められて一貫の終わり。
孫権とて、出来ることなら天下を統一したかったでしょう。
帝号を称した後、魏を倒した暁には天下を東西に分割する盟約を、蜀漢と結んでもいます。
ですが実際には、天下を統一したくても、とても出来ない、そんな余裕もないし、国の存亡を懸けて冒険するわけにもいかない…という所だったのではないでしょうか。
魏は強大ですし、蜀漢は頼りにならないし、山越は何度「討伐」してもすぐに背くし、遼東は魏と二股かけたあげく滅んでしまうし、交州は遠すぎて役に立たないし、夷洲や朱崖洲は遠征するだけ損でした。
しかも本拠地である江東諸郡は当時、
「山越の住む地域の水辺に、漢人たちの植民都市も、ぱらぱらと散らばっている」
というのが実態の、低開発地域。
中原の生産力が回復してしまえば、競いようがありません。
打つ手なしです。
呉としては、国家体制を堅実に固めつつ、天下の情勢に重大な変化が生じるのを待つしかなかったのでしょう。
しかし結局、淮南三叛への介入に失敗し、蜀漢の滅亡も傍観し、魏晉革命という大事件に付け込むことも出来ず、暴君に引きずられるように滅亡してしまいました。
ですが実際には、魏が天下十四州のうち十州余りを有し、曹丕が「孫権を川に沈め、劉備を山へ追いやる」と自賛した戦略を展開した時点で、すでに勝負はあったのだと思います。
華北が異民族に制圧され、漢民族の士大夫階級がこぞって南方へ移住し、江南の開発が飛躍的に進んだ南北朝時代とは、事情が違います。
呉も蜀も、漢民族人口からして少ない辺境へ追いやられた状態で、よく数十年も保ったものだと、むしろ思われます。
ついでに言えば、蜀漢にしても、
「天下を統一しなければならない」
という「使命感」に本気で燃えていたのは、諸葛亮や姜維ぐらいのものだったのでないでしょうか。
それどころか、
「諸葛亮の北伐の真の目的は、蜀漢の経済破綻を避けるため、領地の拡大を図ることだった」
「姜維が雍州西部(涼州)へばかり出兵したのは、士大夫として祖廟の地である天水郡を確保したかったからだ」
という説まであるほどです。
さすがにこれらは、賛否両論あるでしょうけどね。
軍備増強に反対する陸遜に対し、孫権は次のように答えています。
「現在、我が呉は天下平定を成し遂げていない。大事を為すには人数が必要であり、それゆえやむ負えず民衆に兵役を課しているのである。もしひたすら江東の地を固め、現在の領土の保全のみを考えるならば、なるほど陸遜殿の言うように現在の兵力は多すぎると言えよう。だが対外進出を自ら捨てて専守防衛に徹していては必ずや手詰まりとなるだろう。それに常に十分な軍備を備えていなければ、急な問題に直面した時に対応ができなくなる。軍備増強は天下平定の為に必須なのであるから、そなたもどうか分かってもらいたい」
本人が天下取る為に軍備増強してるし、だいたい守ってばっかじゃ詰むよと言ってるので、孫権には明確に天下を平定するつもりがあったように思います。また孫亮の時代は孫権の頃よりも積極的に諸葛恪・孫峻・孫綝らが北進を行っており、特に諸葛恪の時代には揚州方面で魏を押しつつありました。結果的に三者共に敗北しただけで天下平定の意欲はあったように思います。器量がそれに見合っていたかはわかりませんが。
また孫皓は孫権以来30年ぶりに皇帝自ら合肥まで親征を行っており、また丁奉に前線基地を築かせたりと積極的な攻勢に出ています。孫休はその治世のほとんどを国内の立て直しに費やしたため大規模な出兵はありませんでした。呉も皇帝を名乗っている以上、天下を再統一するのが最終目標ですから天下平定を目指していたように思います。むしろ上のやり取のように陸遜ら豪族出身の大臣が邪魔していたようにも思えます。
魏は漢から禅譲した王朝としての自負があります。一方、蜀は劉氏であることから漢の後継として自分たちの正統性をうたいましたから、本音はともかく建前上統一を目指さねばなりません。つまり、二国とも天下統一を目指す大義名分があります。
では呉は・・・? 私には、土地しか拠って立つものが見えません。そして、呉志を読む限り、部曲というか、父祖の私兵をそのまま子孫が継承して行っているように思えます。功績の見返りに土地と人間を与えられ、それを継承し、増やしていく。そんな印象です。呉の君臣は、それぞれ自分の家の利益増強を第一目的にしていたように感じます。荊州戦線での蜀とのいがみあいはともかく、蜀の滅亡が迫ると火事場泥棒的に攻め込んでますし。
領地を増やして増やして、その先に天下統一が成った場合、孫氏のもとに大名のような大地主がごろごろあらわれてお家騒動のたびに戦争が繰り広げられる時代になったかも、と、考えたことはあります。
皆様のように自分自身で三国時代を積極的に調べての考察ではなく、友人のゼミ発表などからの知識に拠っている部分が大きいので、勘違いも多分にあるでしょうが、私は、孫権には天下をとるつもりなど全くなかったと思っています。
孫権は仰るように江東、江南の支配で満足していたと思います。
いかんせん、生まれてくるのが遅すぎた感があります。
江東、江南地方は、遠く春秋戦国時代から蛮族扱いを受け、
文化の遅れた地区として、中原の各国に蔑まれてきた歴史があります。
父である孫堅、兄の孫策には、
戦乱の英傑としての気概も漲っていたでしょうし、
そういう下に見られていた地域から、
中央へつまり中原への進出という夢や、
具体的とまではいかない(立てる前に二人とも亡くなりますから。)までも、
長期的なビジョンはあったと思います。
まだ、天下の趨勢は固まらず、
漢王朝は最末期とはいえ存在する時代、
北には袁紹がおり、
目の上のたんこぶ的な袁術が、
台頭著しい曹操、
各地の豪族達、皆が天下を取る意思を持っていた時期です。
それくらいの野心がなければ生き残れません。
孫権の場合、
父孫堅が非業の死を遂げ、
後を継いで小覇王とまで呼ばれ、同世代の優秀な家臣達と、
呉の黄金時代を築いていたであろう素質を備えている(と思われる)兄孫策、
その兄の下で、覇権の手伝いをしようと思っていた矢先に、
孫策はあっけなく亡くなり、
君主の心構えが整わないうちに神輿に乗せられ、
父親世代の曹操、劉備と戦いながらも、
決して一枚岩ではない豪族の集まりである呉を、
まず纏めなければならず、外患内憂状態が続きます。
心ならずも魏の風下に立たざるを得ず、
半独立状態とはいえ、「呉王」に甘んじなければなりませんでした。
自ら皇帝に上ったのも蜀漢に遅れること8年、ご存知の通り229年。
これも、
戦乱の中心が魏VS蜀漢に移り、呉から遠い漢中の地での小競り合い中、
言葉は悪いですが、どさくさに紛れて、
形の上では宗主国である魏の顔色を伺って、
「独立しても怒られないよな」、「こちらに主力を向ける、そんな暇はないよな」、
で重い腰を上げたように私は感じます。
それ以前も、
呉は基本受身で(国力上しょうがないですが・・。)積極性が感じられません。
それが孫権の性格で、父や兄と大きく違うところでしょうが、
歴史に「if」は禁句ながら、孫堅または孫策が生きていれば、
魏が蜀漢との領土戦争に力を削がれている隙に・・。
蜀漢と連動して・・。は十分に考えられたシュチエーションですが、
孫権にはそういう決断力は欠如しています。
父兄に較べて経験の差がものを言うでしょう。
また、父や兄世代の優秀な家臣の代替わりが起こる時期にも重なります。
孫権は、英才教育、君主教育を受ける前に(不十分なまま)一国の主となり、
魏の覇権が悔しくも成りつつある情勢を、ある意味冷静に見極め、
中央に打って出る時期を逸してしまったことも理解して、
呉という自分のフィールドを守ることを目的にしたのではないでしょうか?
彼があと10年早く生まれていれば・・という気がしないでもありません。
ぶっちゃけ曹操が袁紹を倒して華北を制圧した時点で天下の趨勢は決まってると思います。
孫策の死は呉政権が天下を目指す過程において、かなりの痛手だったと思います。ただでさえ孫堅が戦死して初動で曹操に水を開けられていたのに、官渡で曹操が袁紹と大戦している間に孫策が意図していた急襲が頓挫し、結果的に政権内部の引き締めに汲々とせねばならなかったのは孫氏にとり不幸以外のなにものでもありません。
実際、「あわよくば」程度に考えていたのでしょう。江東、江南は農業、商業共に大いに発展の余地がありますが、蜀と同じく複雑な地形と少数民族の脅威で軍隊の移動が非常に困難です。福建省や広東、広西省の兵士を前線に大規模移動させるのは事実上不可能です。これは三国時代だけでなく、南北朝や南宋も同じ様な問題を抱えていました。呉は全力で魏に向かっていける状況ではない以上、守勢を保って魏に大きな動揺が起きるのを待つしかないと首脳陣が考えたのも無理は無いと思います。
しかし中国の歴史を鑑みるに、長江線で守備重視の戦略を行うと負けます。南朝、南宋、南明全て倒されました。南宋時代以降、華南地方の経済は華北のそれを大きく凌いでるのにも関わらず、人口と動員出来る軍隊の規模の差で押し切られてしまいます。従って孫策が死亡した時点で天下を窺える可能性は大きく低下しています。
孫権の晩年はなんとなく自暴自棄の感じがします。
魏の国力差は明らかです長江近辺の
江東・江南の呉王国で満足するつもりだったでしょう
でも魏が放っておいたかどうか……
孫権は兄と違い他国を攻めるよりも自国を守り繁栄させる方に才があると言われていました。
そこで孫策が亡くなった後は荊州と益州をとり、曹操と天下を二分するという戦略をとりました。