2012年3月29日木曜日

関羽を助けなかった孟達、劉封ですが手勢が少なかったと聞きます。 関羽を助けに...

関羽を助けなかった孟達、劉封ですが手勢が少なかったと聞きます。



関羽を助けに行っても大軍に潰されて合う前に戦死したでしょうから彼らの判断は正しかったのではない
でしょうか?







劉封・孟達の判断どうのというより、2人は関羽の指揮下にないので論外です。



正史『三國志』蜀書劉封伝によれば、孟達は劉備の漢中攻略の際に房陵、上庸を攻略しています。孟達だけでは不安だというので劉封を追加派遣し、孟達の軍を掌握させています。2人は上庸の申耽を降し、上庸攻略を成功させます。

これは劉備の漢中攻略の一環と見るべきです。地理的にも漢中と上庸は隣同士で、漢中の魏軍への側面攻撃の性格を持っています。

関羽から援軍要請が繰り返されたのはそんな時でした。

関羽のいる襄陽、そして立て籠った麦城は漢中よりもずっと遠い。



君命を帯びての作戦行動中に全く関係ない軍事行動が取れるはずがありません。そんな決断ができるような権限も彼らには与えられていません。

また、上庸は占領したばかりで駐屯し民心を落ち着かせる必要がありました。軽々しく軍を移動させればせっかく占領した上庸は動揺し、最大目標であり同じく占領したばかりの漢中を放棄せざるを得なくなっていたかも知れません。

さらに、孟達は軍権を劉封に奪われた事で不満を持ち、2人の仲は険悪な状態でした。



蜀漢軍本体の作戦行動中に、占領直後の不安定な地域で、占領軍の指揮系統が乱れていて。そんな状況で援軍が出せたら奇跡です。

事実、孟達は関羽・劉封らと衝突した事で処罰されると考え、魏に寝返ってしまいます。その結果、蜀漢軍(劉封)の上庸支配は確定せず、劉封は引き続き魏軍(孟達)と対峙を続けます。



つまり、関羽がピンチだろうが死んでしまおうが、劉封の部隊には援軍を派遣する義理も余裕も無かった訳です。

そもそも関羽は節鉞を与えられて軍事専決権を得てから襄陽攻略を開始します。敗死したのは関羽の対呉戦略の失敗ですが、援軍要請自体も劉備に直接要請すべきだったという意味で関羽の失敗と言えるでしょう。








味方の窮地に後詰めを出さないと士気に関わる。

特に豪族の力が強い辺境に「劉備は関羽でさえ危なくなれば見捨てる、頼りにならない」と思われたら戦略的にマイナスが大きい。



だから劉封と孟達は危険を犯しても関羽を助けようとする姿勢は見せるべきだったし、

劉備は「劉封と孟達が個人的に関羽に含むところがあったのだ」ということにしないといけない。







下の方も言われるように戦略的には賢明だったと思います。ただ、関羽と劉備の絆の強さは、孟達はともかく劉封は知っていたでしょうし、関羽を見捨てたら劉備の怒りを買い、どのみち自分たちもただではすまないことを考えるべきでした(考えたにせよ浅かったと言うべきでしょう)。







普通ならそれでいいと思います。ただ、あなたは肉親が病院で亡くなりそうでも家でじっとしていられますか?それと似た感覚です。それにしても、関羽の側にホウ統がいないのが悔やまれます。彼がいれば人材育成面からも軍事面でもきっと孔明の手助けとなった筈です。







孟達、劉封の手勢が少なかったのですが、



関羽ならその少ない手勢を上手く使い

更なる援軍がくるまで持ちこたえたという見方もあるみたいです





あと例えどんな状況であれ、劉封の義理の父は劉備です

そして劉備の義兄弟である関羽を助けにいかなかったのが、

薄情に見えて悪く言うひともいるかもしれませんね

戦国時代(日本)の軍師が用いた策には、三国時代(中国)の諸葛亮が考案したもの、ま...

戦国時代(日本)の軍師が用いた策には、三国時代(中国)の諸葛亮が考案したもの、またはそれをベースにしたものが多かったのでしょうか?







補足します。兵法書で有名なところで

孫子の兵法、呉子の兵法

太公望の六とう三略

などがあります。

なかでも孫子の兵法は

戦の戦術だけでなく、政略略、戦略にも精通していて現代でも応用の効く兵法書となっており戦国時代にはこれを愛読していた武将がたくさんいたとおもわれます。武田信玄なんかが有名ですね。風林火山は孫子の兵法から拝借したものです。ちなみに諸葛亮は政治家としては一流でしたが戦はそれほど上手ではありません(二流)でしたし軍事面ではほとんど活躍しませんでしたし期待もされてませんでした。実際正攻法ばかりの堅実な負けないような戦いしかしませんでしたし作戦も伏兵を置くくらいしかありませんでした。ですから三國志演義の諸葛亮が司馬懿をこども扱いした話しがありますがあれは脚色されたものでしょう。

ですが寄せ集めの蜀をあそこまでにしたのは諸葛亮の政治力の賜物でしょう。

ところで質問にもどりますが孫子の兵法がやはり一番みな参考にしていたと思います。現代の戦争だけでなく企業戦略や政治戦略に応用されてます。どうでしょうか








三顧の礼などで名前は知られてたみたいですが、ベースにはあまりなってないと思います。諸葛亮もたくさんの兵法書を読んでいろいろアレンジしてるし、武田信玄も孫子の兵法書を訳していました。諸葛亮は軍師としてよりも政治家や発明家としての方が有名です。ちなみに諸葛亮は火計が得意だったみたいですが、日本ではあまり火計が使われた記録はありません。







まったくなかった思います。

そもそもは諸葛孔明は軍師ではなく、政治担当者です。一歩譲ったとしても、軍政官です。

戦略を考えるのは得意でしょうが、戦術や細かいことは担当外です。

なので、ベースにしようがないでしょう。







豊臣秀吉は諸葛亮の三顧の礼をまねしたといわれるし(竹中半ベえをGET)

徳川家康は三ヶ原の戦いで追ってくる武田軍にたいしてワザと扉を全開にして敵を追い返したりしました。(これも諸葛亮の策と言われてる)

けど、数千年もたったので、日本の戦法も発達したからかもしれませんね

今更ですが三国時代の呉に関してです。呉は天下を取るつもりが有ったのでしょうか。

今更ですが三国時代の呉に関してです。呉は天下を取るつもりが有ったのでしょうか。

まあ、無かったということは無いと思いますが、蜀ほど使命感があるとは思えず、「あわよくば」程度の感じで、基本的には江東、江南の主で満足していたように思えます。

特に孫権の晩年以降は。

皆さん、どう思われます?







あくまでも私見にすぎませんが、私は孫権はヤル気満々だったと考えています。

以下に理由を挙げます。

1.周瑜・魯粛ら対外積極論者を重用した事。

2.年号を制定し、帝号を称した事。

3.天下平定を成し遂げるために考えられるあらゆる手を打った(打とうとした)痕跡がある事。



まず1ですが、そもそも天下を平定する意志が無ければ魯粛を使う事そのものが出来ません。彼は208年の段階で早々と「劉氏に代わって天下を平定すべき」と進言しています。同時期に周瑜も「荊州・益州を制圧し馬超と同盟して長安に攻め上がる」という壮大な戦略構想をぶち上げています。曹操の軍門に降るべきという張昭はじめ大多数の名士の意見を突っぱねてまで少数派である彼らの意見を採用しているのに「あわよくば」とか「ヤル気ない」はずがありません。



次に2ですが、年号の制定は皇帝のみに許された「時を支配する象徴的特権」であり、王程度に許されるものではありません。しかし孫権は魏帝国成立直後の221年に、魏の呉王の身でありながら年号を制定しており、遅ればせながら229年には正式皇帝として呉帝国を創建しました。

これらは何を意味するのか。孫権・周瑜・魯粛らは知っていたのです。始皇帝は周室の血を引いていない事を。劉氏は秦帝室の血縁ではない事を。曹氏は劉氏の臣下に過ぎなかった事を。

そう、天下を平定するための資格などなく、実力さえあれば誰にでも可能なのだという事を。



そして、孫権が「天下平定」を実現するために行なったのが3です。先の回答者さんが挙げた公孫淵との連携(遠交近攻策)はもちろん、蜀漢との国交維持や連携、合肥や濡須への度重なる出兵、やれる事は何でもやっています。もちろん十二分の努力かと言えば全くもって足らない訳で、実際に見るべき成果が挙がりませんでしたが、少なくとも努力の跡は窺えます。



ではなぜ孫権は充分な努力が出来なかったのか。

大別して3つあります。

1.魏呉の国力差。

2.山越という内憂。

3.長江の存在。



1は言うまでもない話です。皆様お書きの通り、人口密度から農業生産力から何から全く魏には及びません。しかも、中原の動乱を避けて江南に逃れていた士大夫や農民達は、華北が安定するにつれてかなりの数が北帰したと考えられています。ただでさえ少ない人口が減り、その分敵対国の人口が増えるのですからダメージ倍増です。



2も皆様お書きですが、揚州・荊州・交州にはかなりの数の不服従民が存在し、これに対する呉の労力と費用はとんでもない割合を占めています。起用された主な人物だけ見ても黄蓋、太史慈、賀斉、陸遜、凌統、駱統、歩隲、呂岱、鍾離牧などかなりの豪華メンバーです。逆に言えば対外戦略に用いるべき彼らを国内対策に回さなければならないほど厄介な問題だった訳で、しかも彼らをもってしても解決出来なかったのです。

3については意外に思われるかも知れませんが、長い中国史上で長江を南から北に渡って天下を平定したのは唯一人、朱元璋のみです。

それほどまでに長江は雄大で堅固な城壁でした。守るにも、攻めるにも。



さて、私も孫権は途中で諦めたのだろうと推測しています。

根拠として、

1.後継者問題や皇后冊立問題を起こし、しかもそれを放置した。

2.対外戦略が次第に行き当たりばったりになっている。

3.目の前の問題に気を取られて長期的視野が消え失せている。

が挙げられます。



あれほど積極的だったはずの孫権はなぜ諦めてしまったのでしょうか?私は、その最大の原因は張昭と孫登の死にあると考えています。

正史『三國志』を見る限り、孫権と張昭の関係は必ずしも良好とは言えず、むしろ孫権に疎まれていますし、2人して大人げない意地の張り合いも多々見られますが、実は張昭は孫権の父親代わりだったのではないかと思っています。

孫堅の死は孫権がまだ10歳の時です。父に習うべき事を習わずに育った子供っぽい孫権を、張昭は兄孫策の遺命もあってよく補佐しています。さらに張昭は父と同い年。頭の上がらぬ「亜父」だったのだと思います。

また孫登は人格・見識・能力ともに優れた最良の後継者でした。彼が生きていた間は孫権も至極真っ当な英明君主だったのは誰の目にも明らかです。せいぜい狩猟癖や酒癖が悪かった程度でした。

しかし2人の死後は、呂壱の信任、二宮の変や陸遜の問責、孫亮(10歳)の立太子など、耄碌したとしか言い様のない有り様です。

言い換えるなら、張昭の死で箍(たが)が緩み、孫登の死で孫権の中で「何か」がぼきりと折れた。

そういう事ではないでしょうか。



孫亮・孫休の時代は奸臣がはびこり、長期的対外戦略など見る影もありません。孫晧(皓ではない)は頑張りましたが、彼はそれ以上に呉を潰したかったとしか思えません。

孫権が「諦めた」瞬間に、呉の命運も定まったのだと思います。










「無かったということは無い」でしょうね。まぁ「あわよくば」という消極的な姿勢というより「常に隙を狙っていた」という感じだと思いますけど。



積極的な外征を「しなかった」のではなく「出来なかった」のでしょう。地元豪族の存在もさることながら、やはり江東の大半は未開の蛮地。孫策の江東制圧時に王朗が海路伝いに逃げたことからも分かるように、内陸部は山越の庭みたいなもんだったんでしょう。諸葛格伝からも呉は最後まで彼らを平定出来なかったであろうことが推測できます。そんな状態で頻繁に外征など出来なかったんだと思います。



また、よく孫権後期の失策の一つに挙げられる公孫淵との同盟画策。あれだけ見ても江東の主で満足してる程度とは思えません。公孫淵の人となりを知らなかったことやあまりに遠すぎる相手との同盟とはいえ、魏の後方を脅かす勢力を積極的に支援しようとする狙いが見て取れます。蜀のように真正面から攻め込むのだけが魏を倒す手段ではないでしょう。呉は呉で兵を動かす以外の方法も考えていたんだと思います。合肥、合肥新城の争いでも偽の投降など絡め手が目立つので、言い方によっては「あわよくば」ですが…



ただ「孫権の晩年以降」と仰るように、公孫淵との同盟が失敗に終わった時点で打開策が尽き果てていたような感じはしますね。諦めとは言いませんが、もはや従来通りの安全策以外の方法を考えつかなった。殷礼が述べた全国力で攻めるなどもっての他。負けたら滅亡です。諸葛亮ですら負けない戦いに終始してたのに、そんな真似が出来ようはずも無いです。

孫亮の代では毋丘倹、諸葛誕の反乱と二度も大きなチャンスがあり、そのどちらとも出兵してますね。権力を握っていた孫峻も徐州攻略を画策したりしてます。続く孫休には天下への意欲が無かったと断言しますw孫晧は北伐よりも離反していた交州の平定に傾注していたような感じがします。放置しておいたら北伐どころじゃないわけですし。



要は天下を狙ってはいたものの、孫権の末期ぐらいまでには既にドン詰まりに陥っていた、という感じではないでしょうか。以降もチャンスでは常に出兵してますが、いずれも魏との兵力差と内紛で失敗している。ちなみに私は諸葛亮が死んだ後の蜀に「使命感」があったとは思ってないです。







確かに、リクソンは、あまり攻めないタイプだと思います。ゴでは、豪族との協力があって、成り立っており、意見をきかなければいけなかったようです。それにソンケンは、戦上手では無いので、しばらくはリクソンの言う事きくしかないと。じきに、攻めたくなり、リクソンと合わなくなり、リクソンは、有力豪族、陸家の人間でソン家と陸家の中が悪くなりゴは、実質その時点で崩壊していたということ。三国の中で最後まで、残ったのは、ギが内紛で、ゴに攻めて来るどころの話では無かったようです。ギがシンになり国がまとまったため、攻められて一貫の終わり。







孫権とて、出来ることなら天下を統一したかったでしょう。

帝号を称した後、魏を倒した暁には天下を東西に分割する盟約を、蜀漢と結んでもいます。



ですが実際には、天下を統一したくても、とても出来ない、そんな余裕もないし、国の存亡を懸けて冒険するわけにもいかない…という所だったのではないでしょうか。



魏は強大ですし、蜀漢は頼りにならないし、山越は何度「討伐」してもすぐに背くし、遼東は魏と二股かけたあげく滅んでしまうし、交州は遠すぎて役に立たないし、夷洲や朱崖洲は遠征するだけ損でした。



しかも本拠地である江東諸郡は当時、

「山越の住む地域の水辺に、漢人たちの植民都市も、ぱらぱらと散らばっている」

というのが実態の、低開発地域。

中原の生産力が回復してしまえば、競いようがありません。

打つ手なしです。



呉としては、国家体制を堅実に固めつつ、天下の情勢に重大な変化が生じるのを待つしかなかったのでしょう。



しかし結局、淮南三叛への介入に失敗し、蜀漢の滅亡も傍観し、魏晉革命という大事件に付け込むことも出来ず、暴君に引きずられるように滅亡してしまいました。



ですが実際には、魏が天下十四州のうち十州余りを有し、曹丕が「孫権を川に沈め、劉備を山へ追いやる」と自賛した戦略を展開した時点で、すでに勝負はあったのだと思います。



華北が異民族に制圧され、漢民族の士大夫階級がこぞって南方へ移住し、江南の開発が飛躍的に進んだ南北朝時代とは、事情が違います。

呉も蜀も、漢民族人口からして少ない辺境へ追いやられた状態で、よく数十年も保ったものだと、むしろ思われます。



ついでに言えば、蜀漢にしても、

「天下を統一しなければならない」

という「使命感」に本気で燃えていたのは、諸葛亮や姜維ぐらいのものだったのでないでしょうか。

それどころか、

「諸葛亮の北伐の真の目的は、蜀漢の経済破綻を避けるため、領地の拡大を図ることだった」

「姜維が雍州西部(涼州)へばかり出兵したのは、士大夫として祖廟の地である天水郡を確保したかったからだ」

という説まであるほどです。

さすがにこれらは、賛否両論あるでしょうけどね。







軍備増強に反対する陸遜に対し、孫権は次のように答えています。

「現在、我が呉は天下平定を成し遂げていない。大事を為すには人数が必要であり、それゆえやむ負えず民衆に兵役を課しているのである。もしひたすら江東の地を固め、現在の領土の保全のみを考えるならば、なるほど陸遜殿の言うように現在の兵力は多すぎると言えよう。だが対外進出を自ら捨てて専守防衛に徹していては必ずや手詰まりとなるだろう。それに常に十分な軍備を備えていなければ、急な問題に直面した時に対応ができなくなる。軍備増強は天下平定の為に必須なのであるから、そなたもどうか分かってもらいたい」



本人が天下取る為に軍備増強してるし、だいたい守ってばっかじゃ詰むよと言ってるので、孫権には明確に天下を平定するつもりがあったように思います。また孫亮の時代は孫権の頃よりも積極的に諸葛恪・孫峻・孫綝らが北進を行っており、特に諸葛恪の時代には揚州方面で魏を押しつつありました。結果的に三者共に敗北しただけで天下平定の意欲はあったように思います。器量がそれに見合っていたかはわかりませんが。



また孫皓は孫権以来30年ぶりに皇帝自ら合肥まで親征を行っており、また丁奉に前線基地を築かせたりと積極的な攻勢に出ています。孫休はその治世のほとんどを国内の立て直しに費やしたため大規模な出兵はありませんでした。呉も皇帝を名乗っている以上、天下を再統一するのが最終目標ですから天下平定を目指していたように思います。むしろ上のやり取のように陸遜ら豪族出身の大臣が邪魔していたようにも思えます。







魏は漢から禅譲した王朝としての自負があります。一方、蜀は劉氏であることから漢の後継として自分たちの正統性をうたいましたから、本音はともかく建前上統一を目指さねばなりません。つまり、二国とも天下統一を目指す大義名分があります。

では呉は・・・? 私には、土地しか拠って立つものが見えません。そして、呉志を読む限り、部曲というか、父祖の私兵をそのまま子孫が継承して行っているように思えます。功績の見返りに土地と人間を与えられ、それを継承し、増やしていく。そんな印象です。呉の君臣は、それぞれ自分の家の利益増強を第一目的にしていたように感じます。荊州戦線での蜀とのいがみあいはともかく、蜀の滅亡が迫ると火事場泥棒的に攻め込んでますし。

領地を増やして増やして、その先に天下統一が成った場合、孫氏のもとに大名のような大地主がごろごろあらわれてお家騒動のたびに戦争が繰り広げられる時代になったかも、と、考えたことはあります。

皆様のように自分自身で三国時代を積極的に調べての考察ではなく、友人のゼミ発表などからの知識に拠っている部分が大きいので、勘違いも多分にあるでしょうが、私は、孫権には天下をとるつもりなど全くなかったと思っています。







孫権は仰るように江東、江南の支配で満足していたと思います。

いかんせん、生まれてくるのが遅すぎた感があります。



江東、江南地方は、遠く春秋戦国時代から蛮族扱いを受け、

文化の遅れた地区として、中原の各国に蔑まれてきた歴史があります。



父である孫堅、兄の孫策には、

戦乱の英傑としての気概も漲っていたでしょうし、

そういう下に見られていた地域から、

中央へつまり中原への進出という夢や、

具体的とまではいかない(立てる前に二人とも亡くなりますから。)までも、

長期的なビジョンはあったと思います。



まだ、天下の趨勢は固まらず、

漢王朝は最末期とはいえ存在する時代、

北には袁紹がおり、

目の上のたんこぶ的な袁術が、

台頭著しい曹操、

各地の豪族達、皆が天下を取る意思を持っていた時期です。

それくらいの野心がなければ生き残れません。



孫権の場合、

父孫堅が非業の死を遂げ、

後を継いで小覇王とまで呼ばれ、同世代の優秀な家臣達と、

呉の黄金時代を築いていたであろう素質を備えている(と思われる)兄孫策、

その兄の下で、覇権の手伝いをしようと思っていた矢先に、

孫策はあっけなく亡くなり、

君主の心構えが整わないうちに神輿に乗せられ、

父親世代の曹操、劉備と戦いながらも、

決して一枚岩ではない豪族の集まりである呉を、

まず纏めなければならず、外患内憂状態が続きます。



心ならずも魏の風下に立たざるを得ず、

半独立状態とはいえ、「呉王」に甘んじなければなりませんでした。

自ら皇帝に上ったのも蜀漢に遅れること8年、ご存知の通り229年。



これも、

戦乱の中心が魏VS蜀漢に移り、呉から遠い漢中の地での小競り合い中、

言葉は悪いですが、どさくさに紛れて、

形の上では宗主国である魏の顔色を伺って、

「独立しても怒られないよな」、「こちらに主力を向ける、そんな暇はないよな」、

で重い腰を上げたように私は感じます。



それ以前も、

呉は基本受身で(国力上しょうがないですが・・。)積極性が感じられません。

それが孫権の性格で、父や兄と大きく違うところでしょうが、



歴史に「if」は禁句ながら、孫堅または孫策が生きていれば、

魏が蜀漢との領土戦争に力を削がれている隙に・・。

蜀漢と連動して・・。は十分に考えられたシュチエーションですが、

孫権にはそういう決断力は欠如しています。

父兄に較べて経験の差がものを言うでしょう。

また、父や兄世代の優秀な家臣の代替わりが起こる時期にも重なります。



孫権は、英才教育、君主教育を受ける前に(不十分なまま)一国の主となり、

魏の覇権が悔しくも成りつつある情勢を、ある意味冷静に見極め、

中央に打って出る時期を逸してしまったことも理解して、

呉という自分のフィールドを守ることを目的にしたのではないでしょうか?



彼があと10年早く生まれていれば・・という気がしないでもありません。







ぶっちゃけ曹操が袁紹を倒して華北を制圧した時点で天下の趨勢は決まってると思います。



孫策の死は呉政権が天下を目指す過程において、かなりの痛手だったと思います。ただでさえ孫堅が戦死して初動で曹操に水を開けられていたのに、官渡で曹操が袁紹と大戦している間に孫策が意図していた急襲が頓挫し、結果的に政権内部の引き締めに汲々とせねばならなかったのは孫氏にとり不幸以外のなにものでもありません。



実際、「あわよくば」程度に考えていたのでしょう。江東、江南は農業、商業共に大いに発展の余地がありますが、蜀と同じく複雑な地形と少数民族の脅威で軍隊の移動が非常に困難です。福建省や広東、広西省の兵士を前線に大規模移動させるのは事実上不可能です。これは三国時代だけでなく、南北朝や南宋も同じ様な問題を抱えていました。呉は全力で魏に向かっていける状況ではない以上、守勢を保って魏に大きな動揺が起きるのを待つしかないと首脳陣が考えたのも無理は無いと思います。



しかし中国の歴史を鑑みるに、長江線で守備重視の戦略を行うと負けます。南朝、南宋、南明全て倒されました。南宋時代以降、華南地方の経済は華北のそれを大きく凌いでるのにも関わらず、人口と動員出来る軍隊の規模の差で押し切られてしまいます。従って孫策が死亡した時点で天下を窺える可能性は大きく低下しています。



孫権の晩年はなんとなく自暴自棄の感じがします。







魏の国力差は明らかです長江近辺の

江東・江南の呉王国で満足するつもりだったでしょう

でも魏が放っておいたかどうか……







孫権は兄と違い他国を攻めるよりも自国を守り繁栄させる方に才があると言われていました。

そこで孫策が亡くなった後は荊州と益州をとり、曹操と天下を二分するという戦略をとりました。

現在高2で早稲田商学部希望です。 古典 ゴロ565 マドンナ古文常識 富井の古典...

現在高2で早稲田商学部希望です。



古典

ゴロ565

マドンナ古文常識

富井の古典文法をはじめからていねいに

富井の古典読解をはじめからていねいに

古文上達




漢文

早覚え速答法



現代文

ことばはちからダ

ゴロゴ板野の現代文解法



英語

速読英単語(必須)

仲本の英文法倶楽部

ネクストステージ

英文法・語法のトレーニング(戦略編)

基本はここだ

ポレポレ

ビジュアル英文解釈ⅠⅡ



その他

赤本



この中でやった方がいい参考書はどれでしょうか?

その他にオススメの参考書を教えてくれたら助かります。



また、日本史はどのように勉強するべきでしょうか?

たくさんの回答をお待ちしています。お願いします。







古文…ゴルゴとマドンナは薦めません。特にマドンナ(笑)桐原でごり押しに覚えた方が、良いと思います。文法書は一冊欲しいですが、代ゼミ系なら、吉野(元特攻隊長,リーゼントの写真)が分かりやすかったと思います。

漢文…代ゼミ系より、Z会や駿台のが分かりやすいと思います。



現代文…余計な参考書より、本を読みまくることを薦めます。古文・漢文対策を兼ねて、三國志や項羽と劉邦,源氏物語,平家物語なんかを読んでみては?



英語…文法書は何でも良いので1冊。個人的には、桐原の基礎~(もう名前忘れましたが)が好きでした。ネクステと同じ系列ですが、はるかに読みやすかった記憶があります。



日本史は山川の教科書みたいなのに書き込んでいくやつと、やっぱり早稲田は異常な問題が出ますから、過去問漁って、細かい知識を補う形が良いかと。

以下のゲームのジャンルについて、どのようなゲームかを教えてください。また、そ...

以下のゲームのジャンルについて、どのようなゲームかを教えてください。また、そのジャンルに属するPSPでのゲームソフトをそれぞれ2つくらい教えてください。

・アクション

・アドベンチャー

・RPG

・シミュレーション

・シューティング

・テーブル







「アクション」

・プレイヤーのコントロールがゲーム内のキャラクターに直接関与し、それによってリアルタイムで進行するもの。

『無双OROCHI』『海腹川背』など。



「アドベンチャー」

・選択肢によって展開されるストーリーを追うもの。

『流行り神』『MYST』『Kanon』など。

・探索要素が強いゲームもこちらに分類される場合もある。

『トゥームレイダー:レジェンド』など。



「RPG」

・キャラクターの成長を伴い物語が進行するもの。

『英雄伝説 ガガープトリロジー』『空の軌跡』など。

・アクションで成長要素が強いものがこちらに分類される場合もある。

『キングスフィールド』『イース』シリーズなど。



「シミュレーション」

・戦略要素が強く、データのやり取りを基本とするもの。

『三國志』『ダービースタリオン』『勇者のくせになまいきだ』など。

・現実を仮想にて再現し、それを体験するもの。

『電車でGO!』『ときめきメモリアル4』『実践パチスロ必勝法』など。



「シューティング」

・アクションゲームに類似するが、「弾を撃つ」ことに特化したもの。

『グラディウスポータブル』『ツインビーポータブル』

・その中でも3D表現を駆使した主観視点の作品をFPSとする。

『メダル オブ オナー ヒーローズ』



「テーブル」

・ボードゲームや将棋、麻雀ゲームなどがこちらに該当する。

『AI将棋』『いただきストリート』



「ジャンル」自体が作品の多様化にしたがって結構複雑になってきております。

特に「アドベンチャー」と「シミュレーション」は広義であり、多種多様な作品が存在します。

また、アクション・アドベンチャー・RPGは複合する場合がほとんどです。

ニンテンドーDSのソフト もう26歳の男ですが 昔はゲーム好きでした。 ファミ...

ニンテンドーDSのソフト



もう26歳の男ですが

昔はゲーム好きでした。

ファミコンのドラクエやFF などRPGも好きだし、スト2 やKOF など格闘も好きでした。




今ニンテンドーDSのソフト探してます。

途中でやらなくなる物が多いです。

早くやめた順に トモダチコレクション すばらしきこのせかい 幻想酔虎伝 ゼルダの伝説 スローンとマクヘール ドラクエ9 シムシティ テーマパーク 長くてテイルズオブハーツ 3週間プレイくらい。 ちなみにドラクエ6は全クリしました 懐かしかった



DSのソフトは入り込みにくい気がします、、幼稚と感じたり‥自身の変化だと思いますが‥

何かお勧めソフトありますか?







DSでも大人っぽいと言うか難しい系が良いかもしれないですね



RPG

「不思議のダンジョン 風来のシレン4 神の眼と悪魔のヘソ」

「エルミナージュ DS Remix 闇の巫女と神々の指輪」

「真・女神転生 STRANGE JOURNEY(ストレンジ・ジャーニー) 」

ダンジョンばかりかも…(^^;



シミュレーションRPG

「女神異聞録 デビルサバイバー 」

ダークでマルチエンド



SLG

「三國志 DS3 」

「KOEI the Best 信長の野望DS 」

「シヴィライゼーション レボリューション」

戦略SLG



「A列車で行こうDS」

鉄道箱庭育成SLG+経営SLG



ADV

「ウィッシュルーム 天使の記憶」

「ラストウィンドウ 真夜中の約束」

「極限脱出 9時間9人9の扉」



アクションアドベンチャー?

「グランド・セフト・オート: チャイナタウン・ウォーズ【CEROZ】

「バイオハザード デッドリーサイレンス(NEW Best Price! 2000)」



このあたりいかがでしょうか?








A列車で行こう ぐらいですね







信長の野望や三国志など

歴史シミュレーション

はどうでしょう







A列車で行こう は大人でもはまるでしょう。



私もやってみたいです。

電車の窓から見える街を造るゲームです。







私はゲームに全く興味が無かったのですが、

「もっと大人の脳トレ」にはまり、クリア?(終了)までいってしまいました。

ご自身の変化なら、意外とこういう方が合ってたりして。。。







書いてなかったようなので…風来のシレンのシリーズなどどうでしょうか?自分も同じような症状になってました…が風来のシレンを見つけました、懐かしいのもあるけども1度ハマレばなかなか飽きのこないゲームだとは思います。







昔を感じたいならクロノトリガーどうですか?ちょうど世代ぐらいじゃないですか?やってるかどうかはわかりませんが…昔のように楽しめますよ。



DSのは古い機種では無いですかね?GBAのソフトでFFを探してみるとか…DSの3や4はリメイクだし、合わないかも…



難しいものをお好みでしたら、世界樹の迷宮、エルミナージュのような3DダンジョンRPGや真女神転生StrangeJourneyとかですかね。普通のRPGには無い難易度なんで楽しめるかと思います。







何でもそうなのですが、やはり自分に合った物を見つけるしかありません。

他人が面白いと言う物でも自分がやってみたら面白くないという事は多いです。



趣味においてはやはり自分が楽しめる物を探すしかないのです。



補足:

質問者様のゲームのジャンルから推測するにRPG系は長く続いているようですので、RPG系はどうでしょう?

最近ではポケモンなども出ていますしポケモンをやったことあるのでしたらお勧めします。







人に勧められなければやらない程度であれば

ゲーム自体やめた方がいいのでは?



補足

リメイクモノ中心に

古き良き時代を懐かしむのがいいのでは?

FF3やってこんなもんだったか、と逆にがっかりしましたが。

コーエーの歴史SLGが好きな方に質問です。 どのシリーズの何作目が好きですか?...

コーエーの歴史SLGが好きな方に質問です。

どのシリーズの何作目が好きですか?




私は、ジンギスカンシリーズが好きでした。特に4は多くの国の武将が入り乱れて壮快でしたね。

三國志や信長はシリーズが進むにつけて難しくなっているので、古いのが好きです。



ジンギスカンの新作を出して欲しい・・・







ジンギスカンは確かに面白かったですね^^ 懐かしいです。

久しぶりに最新版の「信長の野望―天道―」をやってみたのですが、なんだか、兵隊集めて、お金貯めて、兵糧ためて、バーンって感じになってました。街作りとか、戦略とかがなく、「プレイヤーも作成者もレベルがさがっているなぁ・・・」と悲しくなりました。映像は綺麗ですが。それと、あいかわらず、統一後がさびしすぎます。こういったことは、ここではなく、コーエーにメールすべきですね。

私的には、「信長の野望」が全般的に好きです。ちょっと弱くても、ごひいきの武将を家宝なんかでレベルアップするのが楽しいですし、旅行に行った際に、「たしかあの武将はこの辺りの生まれのはず・・・」と楽しめますし。

おそらく、ジンギスカンの「オルド」が、今の過保護な世の中では、批判されるので新作は難しいのではないでしょうか?素晴らしい女性とめぐり合い、子孫を残すっていう当たり前のことでも、今は女性差別とかになってしまうかもです。