戦国時代(日本)の軍師が用いた策には、三国時代(中国)の諸葛亮が考案したもの、またはそれをベースにしたものが多かったのでしょうか?
補足します。兵法書で有名なところで
孫子の兵法、呉子の兵法
太公望の六とう三略
などがあります。
なかでも孫子の兵法は
戦の戦術だけでなく、政略略、戦略にも精通していて現代でも応用の効く兵法書となっており戦国時代にはこれを愛読していた武将がたくさんいたとおもわれます。武田信玄なんかが有名ですね。風林火山は孫子の兵法から拝借したものです。ちなみに諸葛亮は政治家としては一流でしたが戦はそれほど上手ではありません(二流)でしたし軍事面ではほとんど活躍しませんでしたし期待もされてませんでした。実際正攻法ばかりの堅実な負けないような戦いしかしませんでしたし作戦も伏兵を置くくらいしかありませんでした。ですから三國志演義の諸葛亮が司馬懿をこども扱いした話しがありますがあれは脚色されたものでしょう。
ですが寄せ集めの蜀をあそこまでにしたのは諸葛亮の政治力の賜物でしょう。
ところで質問にもどりますが孫子の兵法がやはり一番みな参考にしていたと思います。現代の戦争だけでなく企業戦略や政治戦略に応用されてます。どうでしょうか
三顧の礼などで名前は知られてたみたいですが、ベースにはあまりなってないと思います。諸葛亮もたくさんの兵法書を読んでいろいろアレンジしてるし、武田信玄も孫子の兵法書を訳していました。諸葛亮は軍師としてよりも政治家や発明家としての方が有名です。ちなみに諸葛亮は火計が得意だったみたいですが、日本ではあまり火計が使われた記録はありません。
まったくなかった思います。
そもそもは諸葛孔明は軍師ではなく、政治担当者です。一歩譲ったとしても、軍政官です。
戦略を考えるのは得意でしょうが、戦術や細かいことは担当外です。
なので、ベースにしようがないでしょう。
豊臣秀吉は諸葛亮の三顧の礼をまねしたといわれるし(竹中半ベえをGET)
徳川家康は三ヶ原の戦いで追ってくる武田軍にたいしてワザと扉を全開にして敵を追い返したりしました。(これも諸葛亮の策と言われてる)
けど、数千年もたったので、日本の戦法も発達したからかもしれませんね
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