中国史上で、
諸葛孔明は、ベスト3に入る名戦略家として
評価される人物だと思いますか?
彼がいなければ、劉備はあそこまで、
活躍出来なかったわけですし、、。
天下統一に明確な功績がある戦略家だけでも10人て言わんのに、地方政権でさしたる成果も挙げられず陣没した人物がベスト3候補?
ご冗談もほどほどになさって下さい(笑)。
私は三國志が大好きですし、諸葛亮の能力や実績・人格などにおいて過大評価も過小評価もするつもりはありませんが、こういう「相対比較の評価」においては、どれほど能力があろうとも実績を残していない人物には高い評価がつけられるはずもないです。
そりゃ、確かに時代が下るほど諸葛亮の評価はうなぎ登りですが、それは蜀漢正閏論の恩恵を受けただけであり、誰も彼もが評価し持ち上げてゆく人物(諸葛亮)を正当に評価し直そう…という風潮も勇気ある人物もなかなか出て来なかったというだけの話です。
ちなみに、俗に言う「天下三分の計」は諸葛亮の独創ではないですし、そもそもが「あんた(劉備)も早よ根拠地持ちなさい」っていう進言は誰にでもできた話です。それに先の回答者さんもおっしゃってますが、劉備が蜀(益州)を取れたのは呉の魯粛が後押ししたからこそですね。
統一に功績があった戦略家として前漢の張良や陳平、隋の楊素や高ケイ、唐の李靖や李勣、明の劉基、清のドルゴンなどは普通に名が挙がりますし、統一王朝以外で言えば三國魏の荀イク、東晋の王導、前秦の王猛、南朝宋の劉穆之などがいます。
これらの人物は私がパッと思いつくレベルの人物であり、探せばまだまだたくさん出てくるでしょう。
諸葛亮はベスト100とかベスト50なら当然入るべきですが、ベスト10には厳しいでしょうしベスト3なんて到底不可能ですね。
◆諸葛亮は名戦略家ではありません。
◆劉備の活躍に孔明の寄与はほとんどありません。
諸葛亮が実現させた特筆すべき戦略はありません。
それどころか、
孔明が独自に提唱した戦略さえ皆無に等しいです。
「天下三分の計」は春秋戦国時代から存在した策であり、
この時代では魯粛が孔明より七年も前から先に唱え、
推進させ、さらには実現させたものです。
また、諸葛亮は名政治家とも言い切れません。
尹韻公は、孔明を権力に対する独占欲が
極めて旺盛な政治家であったと評しています。
(劉禅は事実上の軟禁状態にありました)
外来政権であった蜀漢は「漢室復興」を理念とし、
法を定めて蜀の民から搾取し、国庫を補っていました。
その結果、『蜀記』には
「諸葛亮は刑罰に厳しく、情け容赦なく刑を執行したので、
君子から庶民にいたるまで恨まない者はいなかった」
とあります。
諸葛亮による派閥政治も混乱を招きました。
自身の属する荊州派閥を第一とし、
地元士族・名士の益州派閥を軽んじています。
荊州派閥の中でも諸葛亮が権力を独占し、
益州派閥は仕官さえままならない状況に追い込まれました。
当然、益州派閥の彭羕、周舒、杜瓊、杜微、譙周らは、
蜀漢政権に反動的言動をなしました。
すると諸葛亮は目障りであった彭羕を殺すなど
益州派閥を粛清(無実の罪で殺された者もいます)し、
孔明に請われて出仕した杜微は見限って去りました。
蜀の人々に曹魏待望論が起こり、
益州派閥が魏支持になっていった様子は
「杜瓊伝」「譙周伝」などに明らかです。
さらに諸葛亮が、自分と同じ顧命大臣であり、
東州派閥の代表であった李厳を失脚させた事件も
「あまりに荒唐無稽で、常識はずれである」
と田余慶が指摘するまでもなく、非常に不可解です。
諸葛亮の死後、荊州派閥は孔明を廟に祀ろうとしましたが、
劉禅は頑なに反対し、長らく許可しませんでした。
また北伐に関して、
諸葛亮が正攻法で魏を攻めたことはありません。
北伐は名目こそ「漢室復興、旧都に還る」でしたが、
実際の目的は北方異民族対策と交易路の確保です。
第一次北伐の際、
孔明が数年間かけて準備した孟達との内応策が失敗すると
(やはり諸葛亮には戦略能力が乏しい)
蜀軍は祁山へ進出しています。
これは「東京から出て、
仙台を討つと言って甲府のほうへ押して行ったようなもの」
と高島俊男が書いているように魏とは方向が違います。
正攻法で戦ったと思われなくもないのは、
呉軍の動きに呼応して出撃したときくらいでしょう。
劉備の活躍に諸葛亮がほとんど寄与していないことは、
類似のご質問に以前回答したものがありますので
恐縮ですがそちらをご参照いただければ有難いです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1458963774
まず三國志の時代ですが戦乱が長くつづいていたのは優れた人材がリーダークラスから末端まで全ての役職において不足していましたからだとおもいます。
諸葛亮ですがベスト3はとっても厚かましいといえるでしょう。
後漢末まででも諸葛亮は20位に入るか難しいとおもいます。さらに後の時代にも優れた人物がいるわけですから。
この頃から随まで戦乱がつづきますがやはりそれまで優れた人材が不足していたといえるでしょう。
トップだけ優れていてもダメで上から下までまんべんなく揃っている事も大事です。
ですが曹操だけは中国歴史上で比較してもかなり高い評価あたえれてますしもっと野心家だったら中国統一して最大級の評価をえていたでしょうが晩年は野心も薄れてしまい漢の家臣を貫いてしまいました。
質問者さんは司馬遷の史記や十八史略をよんでみるといいとおもいますよ
追記
後漢末から随ができるまで戦乱がつづいていたわけですがこれだけながく戦乱がつづいたのはこの間の人材が質、量ともに不足していたのをあらわしているといえるでしょう。
どう頑張っても難しい・・・と思います。三国志時代に限定すれば望みもありますが!短期間に呉の領土を得た周瑜。結局、最後まで生き残った呉。それを加味して陸遜。魏では、秀吉なみに乗っ取りに成功した司馬懿をはじめに他多数・・・。蜀では関羽。これは個人的感情が入ってます。関羽が討たれて蜀は衰亡の道を辿る事になるので。質問が中国史上と大きく出たので、一人ずつ述べてみます。まずは、周の文王にみいだされて、子の武王とともに商王朝を打倒した太公望。(ちなみに、文武両道という言葉の文武は、周の文王、武王を指す)その太公望を始祖とする斉からは管仲、晏嬰、田単。晋からは、重耳を佐けた狐偃、士会とその祖父の士イ。呉は、孫武に伍子胥。燕からは弱点が見当たらないパーフェクト武将の楽毅。他にも多数いますが、ここらへんで。孔明のフォローに移ります。もし、孔明と同じ戦況に他の軍略家を置き換える事が出来るとします。それでも、結果は同じでしょう。どの時代の英雄でもあそこから一発逆転は、とても無理だと思います。ここらへんが孔明の強味かと・・・終。
戦略の定義をどう取るかによるのですが、見方によってはベスト3に入れても間違いではないと思います。
既に多くの方から「諸葛孔明は政治家としては天才的だが、軍人としては同時代から見ても必ずしも抜群ではなかった」という様な意見が出ていますが、その通りだと思います。
諸葛孔明は三国志演義では奇抜な作戦がずばずば当たる軍事の鬼神の様に描かれていますが、現実には奇策を殆ど用いない人でした。ライバルの司馬懿も奇策を殆ど用いませんでした。
戦略と言っても現実の戦争では国の経済力や兵の質や強さや数などで殆ど決まってしまい、ある程度の軍事の名人が仕切れば作戦にそれほど大差は生じないと思います。(その人の性格にもよると思いますが)
諸葛孔明の作戦は、兵士を徹底的に調練して強化する、木牛流馬などの輸送機器の開発などにより補給体制を強化する、屯田兵制度の導入により食料を増産する、など様々な手法により経済と兵力を強化しました。
そして強力な経済力と兵力を背景に峻険な地形を生かして正攻法で北上する、という愚直とも言える作戦を繰り返しました。
これなら凡将でも考え付くような事ですし、司馬懿も諸葛孔明の意図はほぼ見抜いていました。
しかし、魂胆が分かっていながら司馬懿をはじめとする魏軍は蜀軍に付き合わざるを得ず、蜀の北伐の度に重い負担を強いられます。
軍事作戦としては凡庸過ぎる位なのですが、諸葛孔明が天才的な政治家であるからこそ蜀の経済と兵力をこれほどまでに強化する事が出来たのだと思います。
結果的に蜀は負けますが、もし、諸葛孔明が後20年間生きていて、分かり切った愚直な作戦を続けていれば魏の経済が破綻して形勢が逆転していた可能性もあります。
ですから、蜀の北伐は作戦的には平凡過ぎますが、正解だったのではないかと私は考えます。
そう考えると諸葛孔明はやはり名戦略家という事になるのではないでしょうか。
三国志の現実>人物評価の虚実>過大評価された人物>諸葛孔明(諸葛亮)
http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Jupiter/1750/gunji.html#shok...
劉備は関羽の仇を討つために呉に出兵する、孔明は諌めるが劉備は聴きいれず敗北し、その後死亡。
この辺りの事を見て、中国を統一した男達の中のベスト3に入るのは無理でしょう。
「泣いて馬謖を切る」最初から馬謖なんぞを使うなと言いたいです。
戦略としてはどうかわかりませんが、政治家として能力は高いものがあります。
北伐にしても蜀漢の存在意義の為の行動でありましたし、あれだけ軍事行動をおこしたのに大きな反乱もなく、財政破綻もおこしていません。三国時代に死後、慕われて祀られたのは孔明だけです。(関羽は祟り神としてです。)
戦略家の定義があいまいなのですが、いわゆる名参謀(名軍師よりの評価で・・・なので管仲・王導とか耶律楚材、蕭何は外します。)
と呼ばれる人を上げてみました。
過去;太公望、司馬穰苴、呉起、孫武、范蠡、孫ビン、張良、陳平
同時代;荀イク、荀攸、賈ク、魯粛、朱績
以後;劉基、王猛、張賓、李善長
太公望、司馬穰苴はちょっと昔すぎる(伝説にちかい)し、除外するとして
劉基;演義の諸葛孔明のモデルになった人物。明建国の立役者
張良;三傑の一人、漢建国の立役者
は確定として残り1枠を
呉起、孫武、范レイ、孫ビン、荀イク、王猛を争うことになると思います。
孫2人は事跡がわからないことがありますので、さらに除外すると
まあギリギリ入れるような気もします。
孔明は演義での活躍と、そのイメージが先行してなかなか正史だけでの評価がしにくい人ですよね。(評価が極端になってしまう)
フィクションの世界でならともかく、現実の諸葛亮は「戦略家」としてはそれほど評価されていませんよ
彼が最大級に評価されるのは「内政家」としての手腕です
特にその公正無私な賞罰は評価が高いようです
「三国志」の著者・陳寿は、その政治の才能を中国史上最大の宰相・蕭何に匹敵すると述べています
他の人による評価も、おおむね「軍事的才能はイマイチだが、内政家としては史上でもトップクラス」という具合ですね
***
ただし戦略家としても凡庸だったわけではありません
三国時代随一の作戦家・司馬懿をして「天下の奇才なり」と言わしめたように、ある種の分野では軍事面でも秀でていました、、、それは「正攻法」
諸葛亮は、例えば韓信のような正奇を織り交ぜた臨機応変の軍事的才能は持っていませんでしたが、基本に忠実な正攻法を取る限りは高度に完璧に仕上げてくる人でした
「魏を攻略する」などという、そもそも無茶な事業を為すことは出来ませんでしたが、在任中に自分よりはるかに大きな敵に向かって何度も攻めて出て、それでも大崩れしなかったのはこの「正攻法を正しく完璧に実行する」という性質によります
(もっともそれだけに「正攻法では魏を攻略するのは絶対ムリなので、奇策を用いるべきだった」という批判にさらされるんですけどね)
内政の事績というのはなかなか具体的内容が後世に伝わりづらいんですが、あれだけ無謀な戦争を何度も起こしておきながら、それでも蜀の国力を疲弊させることがなく民から恨まれることも無く、むしろ何百年経っても蜀の民から慕われ続けていたという事実が、諸葛亮の内政家としての手腕の尋常で無さを示していると言っていいと思います
中国史上というとなかなか孔明はベスト30位ですよね。
三国時代であれば、ベスト3でもOKだと思います。
孔明はどちらかといえば、発明家として有名ではないかと思います。
当時の時代背景で言えば、かなりの人物です。
戦略家としては、同じ時代であれば、曹操だと思います。
また、呉を強国への道を作り出した周瑜なんかも代表的な戦略家です。
赤壁で孔明と共にだいぶイメージアップしてますけどね。
そして、曹操がイメージダウン。
史上で見ると時代背景も規模も違うので、人それぞれ違いますので、
なんとも言えないとは思いますが、楽毅や張良、曹操等の方が上と思います。
近年では毛沢東も名戦略家ではないでしょうか?結果として。
ベスト3?は?
あんた中国歴史は三國志演義しか読んだことないだろ。
寝呆けた事いってんじゃねーよ。
あなたは頭の中がメデタイ人だな!
評価は実績をみて評価するのが平等で妥当でしょう。諸葛亮がどんな実績を蜀で残した?
諸葛亮より実績残した人は腐る程とはいいませんが挙げればたくさんでてきますよ。
てめーはもっと中国歴史勉強したほうがいいぜ!
ちなみに曹操は中国歴史上でもかなり高い評価(ベスト10には入る)を得ているぜ!
知らなかった? ボケッ!
北伐を繰り返して蜀崩壊のきっかけを作ったり、実際の功績は大した事ないと思います。それ以上の功績をあげた戦略家は中国史上だけでも数十人以上います。太公望など失敗しなくて天下を上り詰めた戦略家も多いですが、諸葛孔明は結局小国を作り、荒廃させただけですしね。
三国志演戯という物語の中のキャッチフレーズでの「天才軍師」が一人走りしすぎな感がします。
戦略家としてなら諸葛亮よりも魯粛の方が上。天下三分の計は呉の
協力あってこそですし、そこで蜀を積極的にサポートしてくれていたのは
魯粛。
もし魯粛がいなくて、劉備の蜀取りを孫権が黙認しなかったら、劉備は
蜀を取れていたと思いますか?下手したら呉は曹操に降伏して荊州を
攻め取っていたかもしれません。
元々呉蜀同盟を持ちかけたのは魯粛からであり、その後蜀との外交で
表に立ち続けていたのも魯粛。時には関羽を叱り飛ばし劉備達が蜀を
取ることを孫権に黙認させ、と彼こそ蜀にとってのキーマンです。
諸葛亮については、進言の割には天下三分に向けての能動的な行動
が見えませんし、何よりも蜀取り以外では常に後手を踏んでいる。益州
攻略も主で動いていたのはホウ統、となってくると天下三分の計自体の
信憑性も怪しくなってきます。
少なくともあれだけ周囲の状況に左右され、主導できないようでは評価
もあまり高くは出来ません。
戦略家としては大抵一つの王朝に1人は優れた人物がいるので中国史
上でトップ3はさすがに無理だと思います。三国志上でトップ3に入るか
が焦点ですね。
人間序列をつけたがるものですが、あえて違った意見を…。
>NO1軍略家か?
中国の長い歴史の中で、NO1は誰?とおいそれとは決められないでしょう。あくまで同じ時代を生きた人物の中で、比べることはできるかもしれません。三国時代の軍略家なら諸葛亮、魯粛、郭嘉などといった人物を比較することになるのではないでしょうか?優劣はつけがたいと思います。
三国よりもあと、諸葛亮に準える諸葛亮基準のようなものがあり、例えば、明の劉基が挙げられます。
何しろ中国は諸子百家の国ですから、はっきり言ってベスト3なんて超激戦区ですね。
実績の部分では以外にスケール感が足りませんが、諸葛亮が自ら擬した管仲・楽毅や、臥薪嘗胆の故事の素になった范蠡、意外に戦術家としての活躍がクローズアップされ勝ちの孫武・孫臏、いやまあ、数えたら切りがないっすよ。
合従・連衡を唱えた蘇秦・張儀も戦略家ではないにしても戦略眼は評価に値するわけです。
いわんや遠交近攻の范雎に到っては彼のプランで秦の勢力を大きく伸ばしております。
そして戦略家と言えば張良ですよね彼なしに前漢の成立はないと言っても良いくらいの功績を残しています。
更に三国時代の後にも多士済々な訳ですからある程度条件を絞らないと比較のしようがないですね。
もちろん同時代だって曹操という偉大な戦略・戦術家がいたわけですし。(ポカ・ミスも多いけど)
オマケに近代中国には毛沢東センセイもいるしね。
日本からODAもらい放題もらっておきながら、ちょっと腕力が強くなったからってジャイアンみたいな態度を取る歴代の主席達も数十年に渡る見事な連携プレーです(笑)
しかし個人的には諸葛亮を単純に「政治家」と切って捨てるには忍びないです。
彼の戦略プランの最たるものは「天下三分の計」であって、そのプランが実現した結果、曹操の代で終わる予定だった中国の再統一はかなり遠のいた訳です。
戦略案が招いた結果の影響がこれほど大きいのはそう他にはないでしょう。
魏・呉・蜀、三国のうち魏一国で他の二国を圧倒する国力があったにも関わらず、劉備軍閥が明確なプランを持って僻地の蜀に入った事で天下統一事業が膠着状態になった訳ですから。
当時誰もが中原の地にばかり目が行き、中原を制した曹操を時代の覇者と認めつつあった時期、敢えて首を180度旋回させて蜀に目を付けた彼の戦略眼は、今でこそゲームなどでマップを上から見る事が出来る我々には当然の策だったかもしれませんが、当時の人間ではなかなか思いつかない事だったと思います。
(もちろん前例はあるにはあったのですが:漢の高祖、新の時期の蜀の隗囂)
私個人としては彼は統率は文官なのでゼロ、戦術はなんとか及第点というレベルで、戦略は一流だと思っています。
まあ、競合ひしめく中国の歴史で、確実にベスト3か?、、、と言われれば困るけど、ベスト3候補に残るのは当然だと思います。
「天下三分の結果、中国の再統一が何十年も遅れた」、この一事のみでも彼は十分に評価されるべきだと思います。
僕はNO1だとおもいますね
戦略家としてはベスト3は無理でしょう。治世家としての方が評価は高いと思います。
私なら
1 太公望(呂尚) 周の文王、武王に仕え、殷に勝利する。
2 呂不韋 秦の宰相 「奇貨居くべし」の言葉で知られる。
3 張良 漢の軍師
を挙げます。正直三人はキツイです。
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