三國志に関係する質問です
西涼地方の質問になりますが、
1、韓遂はいろいろな君主と合体していますが、馬騰を除いて辺章、北宮玉、王國も早死にというか、、
君主になってすぐに亡くなっています
韓遂が暗殺しているのですか?
辺章、王國、北宮玉について知っていたら、こちらの経歴もお願いします
2、当時女性の身分は低いですよね
王異は韋康、趙昂、姜?の下で私なりにの解釈ですが、大きな戦績を残していると思います
もし彼女が男性だったなら、賈クや周瑜並みの軍師になっていたでしょうか?
韋康、趙昂、姜?(←忘れてしまいました)の経歴もあれば併せて答えていただけると嬉しいです
よろしくお願いします。
1.韓遂は辺章、王國、北宮玉を暗殺したか・・・。
韓遂は、いうなれば寝業師です。№1にはならず、陰で操りますが、
利用価値がなくなれば殺して次を探します。
仰るとおり、
韓遂は、王国と組んで、辺章、北宮玉を殺害し、
その後、王国を殺しています。
【王国(おうこく)】生年不詳~没年不詳。
宋建と共に羌の北宮玉と結んで反乱を起こします。
王国らは韓遂、辺章を拉致し、
軍権を任せて叛乱の首謀者に担ぎ上げました。
韓遂は北宮玉と辺章を殺し、逆に王国を首謀者に担ぎ上げます。
王国と韓遂は義兄弟の契りを結びますが、
結局、188年、討伐に来た董卓らに敗れたとき、
韓遂に追放されます。そのとき殺害されたともいわれます。
【北宮玉(ほっきゅうぎょく)】生年不詳~189年。
北宮伯玉とも呼ばれた羌族の首領です。
湟中月氏胡の種族で湟中義従となりました。(後漢書西羌伝)
中平元年(184年)冬、
北地郡の先零羌が枹罕・河関の盗賊どもとともに叛逆し、
湟中義従北宮伯玉・李文侯を将軍に擁立し、
護羌校尉伶徴を殺害します。
北宮玉は、宋建・王国らと結び、黄巾の乱に乗じて後漢朝領に攻め入り、
そこで韓遂・辺章を人材として得ると、涼州を席捲。
鎮圧に来た皇甫嵩も、功を上げられず追い返されます。
代わって張温が董卓、孫堅らを従えて討伐に来たので、これと激しく戦います。
北宮伯玉は辺章・李文侯らとともに韓遂の裏切りに遭い、
殺害され、(後漢書董卓伝)
反乱頭目の座を取って代わられました。
【辺章(へんしょう)】生年不詳~189年。
涼州の地で名を挙げ、督軍従事となります。
宋揚、北宮玉らの反乱に担がれて韓遂と共に盟主となり反乱を起こしました。
懸賞首になったので、名を「允」から「章」と改めました。
これを鎮圧するために董卓が中央から派遣されてきましたが、
董卓は戦果を上げることが出来ませんでした。
漢王朝では張温を総大将、孫堅と陶謙を参軍として討伐軍を派遣します。
辺章らは大軍が派遣されてくることを知って降伏しました。
189年、馬騰、韓遂らと共に刺史、郡太守を殺害して、
涼州で再び反乱を起こします。
軍勢は十万にも達し、天下は動揺しました。
後に辺章は病死したとされます。 (魏書・武帝記ほか)
味方の韓遂、王国に裏切られて北宮玉と共に殺されたともいわれます。
2.王異が男性なら・・・。
当時の女性には珍しく、故事を引いたりの受け答えは、
堂々としてお見事ですが、
それと戦略や戦術とは異なるものです。
賈詡と周瑜を同列に扱っては、それぞれ(特に賈詡)には怒られそうですが、
少なくとも賈詡の智謀、機知に長ける参謀術策には及ばないかと思います。
【韋康(いこう)】生年不明~212年
字は元将。京兆(陝西省西安の西)の人。
曹操配下の荀彧の推挙を受けて、父に代わって涼州刺史となります。
潼関の戦い以降に、曹操に大敗した馬超の攻撃を受けて冀城に立て籠ります。
包囲は8ヶ月にも及び、捕らわれて殺害されます。
【趙昂(ちょう こう)】生没年不詳。
字は偉章。妻は王異。
天水の参軍事。冀城に馬超が攻め、城主の韋康が殺されると、
楊阜、姜叙らと協力して馬超を退けます。
馬超が張魯の助けを得て再度攻めてきた際には、
王異と共に祁山に立て篭もり、
夏侯淵の援軍が到着するまで馬超の猛攻に耐え続けました。
演義では姜叙の部下となっており、
馬超討伐の案に乗ろうにも、息子の趙月が馬超の副将なので、
王氏(王異)に相談しますが、
「君主や父の仇を討つためならば息子の命は仕方が無い。
それでも貴方が迷うと言うなら私は先に死にます」と激励したため、
趙昂は楊阜らと共に馬超を撃退したとされます。
【楊阜(ようふ)】生没年不詳。
字は義山。
韋康が涼州刺史となると、別駕として召し出されます。
馬超に包囲され一旦降りますが、
韋康を殺害した馬超を憎み、姜叙、趙昂らと共に馬超に対して反乱を起こします。
この反乱で楊阜の一族7人が馬超によって殺され、
楊阜自身も重傷を負いますが、
馬超が冀城に留守に置いていた妻子一族全てを捕らえて処刑しています。
その後、武都郡に赴任、曹操の孫の明帝の代になると中央に召され、
将作大匠・少府に昇進しました。
【姜叙(きょうじゅ)】生没年不詳。
字は伯奕(はくえき)。
馬超が涼州に侵攻し、刺史の韋康を殺害すると、
韋康の部下だった姜叙は仕方なく馬超に従い撫夷将軍として歴城に駐屯します。
韋康の仇討ちの意思を抱いていた楊阜が、
姜叙にその気持ちを涙ながらに語ると、
感動した姜叙の母は姜叙に楊阜の計画に従うように命じます。
212年鹵城で楊阜と共に馬超に反旗を翻します。
馬超の妻子を捕らえて殺しますが、馬超は姜叙の母を捕らえます。
彼女は馬超のことを親不孝者の反逆者だと罵ったため、
馬超は彼女を始めとする姜叙の一族を虐殺し、
城を焼いて漢中に去りました。 (魏書・楊阜伝)
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