三國志の劉備は実は素行が悪く乱暴者だったんですか?
劉備は若い時、大きな桑の木を見て「俺は将来、こういう屋根が付いた車
(皇帝の車)に乗る」とうそぶき、叔父に叱られたといいます。
盧植という一流の儒学者(かつ漢の将軍)に学びましたが、学問より音楽や
闘犬、音楽を好み、ひときわ目立つ服装をしていました。男同士の結びつき
を大切にし、彼のもとには多くの無頼の徒が集まりました。
他の方が述べたように、副県令の時に州牧が派遣した監察官と喧嘩して袋
叩きにします。劉備が流浪しても各地で迎えられるのは、戦に強い傭兵部隊
的な側面があったからだとされます。
色白で軟弱な演義の劉備とは大違いです。劉備は蜀獲りの途中で、勝ち
戦に「今日は何と楽しいことか」と酔っぱらい、ホウトウに「人の国を奪ってお
いて楽しいなんて、仁者の兵とは言えない」と叱られます。
演義では反省しますが、正史では劉備は怒っホウトウを退席させます。
劉備の信頼が厚い法正と孔明は政治的に対立しており、劉備と孔明の間
にも距離感があったとされています。孔明に「劉禅がダメならお前が皇帝にな
れ」と語った感動話がありますが、これは信頼の証ではなく、逆に「裏切るな
よ」という念押しであるとの指摘もされています。
中山国の安熹県の尉(警察署長みたいなもの)に任官され、督郵(役職名)がやって来た際に面会を断られたのに腹を立ててそのまま押し入ると、縛りあげて杖で200回叩き、官の印綬を督郵の首にかけ、官を捨てて逃亡した逸話があります。演義では張飛がしたことになっていますが、そうしたのは劉備のヒーローのイメージが崩れることを懸念したからでしょう。
そうです。
日本で言う渡世人みたいな侠客みたいな行動です。
生涯、素行は良くなりませんでした。
そういう見方もあるようですね。無宿者や流れ者みたいな人間を子分?にして大勢抱えた任侠集団のような状態になっていたとも言われてますし。
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