三國志の質問です
蜀軍が長安奪取のために戦っている最中、魏延、張嶷と共に戦う武将に陳式、杜瓊という武将がいたそうですが、彼らについて教えてください
よろしくお願いします
【陳式(ちんしき)】生没年不明。
『三国志』の著者・陳寿の父と言われている人物です。
陳寿の父が馬謖の参軍で、馬謖の死刑に連座して、
髠刑(剃髪の刑)に処されたとされます。
が、
『晋書』「陳寿伝」に、陳式=陳寿の父親の記述はありません。
彼の本籍地なども、不明です。
(したがって信憑性75%くらい?・・・)
正史によると、
劉備に従い、漢中攻略の際に、
馬鳴閣道の封鎖のために派遣されますが、
徐晃に敗れます。
夷陵の戦いでは将軍として、
呉班と共に水軍を率いて夷陵に駐屯しました。
220年、
諸葛亮の北伐に先鋒の総大将として武都と陰平を攻略し、
その功績を挙げました。
また、雍州刺史・郭淮の挟撃を諸葛亮と共に試み、
隴西方面に撤退させました。
以降は陳式に関する記述はありません。
演義では、
黄忠の武将として登場します。
夏侯尚の軍勢と戦い、捕虜となりますが、
同じく捕虜になった夏侯尚との人質交換で、
無事に黄忠の陣営に戻ります。
その後魏延と共に軍令を無視して魏軍を追撃し、
その結果、大敗して多くの兵を失ったことから、
諸葛亮の怒りを買って斬首されます。(演義100回)
正史にも演義にも「馬謖の参謀」との記載はありません。
演義での斬首も、
「陳寿伝」の、陳寿の父が髠刑(剃髪の刑)に処されたという話が、
陳式=陳寿の父と断言されての創作かと思われます。
【杜瓊(とけい)】生年不詳~250年
字は白喩(はくゆ)。梓潼郡涪の人。
部将というより、文官です。
若いころ任安について学問を修めます。
益州牧劉璋に召し出されて従事となりますが病気のため退職。
劉備が益州を支配したとき、議曹従事に任じられますが、
耳が聞こえぬと称して邸の門を閉ざして出仕しませんでした。
「静かで控え目な人柄で口数少なく、
門を閉ざしてじっとしており、世間のことに関与しなかった。」
との正史の評がありますが、
耳が悪かったようですね。
建興二年(224年)諸葛亮は益州牧を兼官しますが、
このとき徳望をもって知られる人々を属官に登用します。
別駕に秦宓、功曹に五梁、主簿に杜微を指名しますが、
杜微は固辞しました。
そこで諸葛亮は馬車をやって杜微を連れてこさせました。
諸葛亮は直接彼に会って出自を乞いますが、やはり杜微は断ります。
諸葛亮は杜微の耳が不自由だと聞いて、筆談で交渉しますが、
杜微は老齢と病気を理由に断ります。
結局、杜微の人徳によって時代を導いて頂くだけで充分だからと、
実際の職務のない諫議大夫に任命しました。
左中朗将、大鴻蘆(だいこうろ)、太常と昇進。
80余歳で亡くなります。
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