2012年3月13日火曜日

三国志の陳寿が書いた正史でいくつか質問があります。 ①桃園の誓いもほんとの話で...

三国志の陳寿が書いた正史でいくつか質問があります。



①桃園の誓いもほんとの話ですか?




②正史の方でトウタクはすごくいい人って聞いたことがあるんですがほんとでしょか?



③なぜ陳寿は三国志の歴史をすごく細かく記すことができたのでしょうか?



あんなに細かく100年近い歴史を記していくのは正確に記していくにしても大変だと思います。

ましてその頃は今の時代と違って情報も曖昧なところもあると思います。



まぁそれは他の歴史書でも同じことでしょうけど。



どうか回答お願いしますm(_ _)m







質問1。

いわゆる桃園の誓いと呼ばれる劉備・関羽・張飛の義兄弟の契りは正史『三國志』にはっきりと記されている訳ではありません。

ただし、「兄弟のように親密だった」的な記述はあります。



質問2

董卓は正史『三國志』でもボロクソに言われています。「歴史上これほどの悪人はいない」とまで。



質問3

陳寿は晋に仕えて、著作郎という歴史事実を整備・記録する仕事をしていました。ですので一般の人よりも多くの書物・史料に目を通せた可能性が高いですね。その証拠に陳寿以前に三國時代の歴史を書き記した人物は何人かいますが、どれも自国(魏なら魏、呉なら呉)の歴史のみにとどまっています。また陳寿もそれらの先行史料を参考にしたと思われます。

陳寿と同時代には三國の通史を記す人物も現れていますが、陳寿のまとめたものがもっとも評価が高かったようです。



以上、参考になれば幸いです。



【追記】

補足について、義兄弟の契りを交わしたという記述は正史『三國志』にはありません。ですので小説『三国志演義』でのフィクションとするのが一般的です。



あと、質問者さんが間違うといけませんので…。

haririderさん、『史記』は正史ですよ。それに『三國志』は陳寿が独力でまとめたものが西晋王朝によって正史に認定されたものです。

あと、陳寿の父は名前もどんな人物かも判明していません。お書きになった内容は『晋書』(唐王朝の公撰)によるデマです。

『晋書』は噂話とか信憑性に問題がある記述が多く、『元史』と並んで正史でも最も評価が低い史書のひとつです。



soukyuunosasayakiさん、早速の訂正ありがとうございます。








①嘘。まぁ劉備が兄弟のように恩愛をかけたとは言われていますが。

②上洛してから暴虐になってひどいんですが、もともとは異民族からも慕われる任侠の風がある人でした。たとえば異民族の一つである羌族の顔役たちが面会に来ると、董卓は農耕に使う耕牛を殺して、その肉で宴会をしてもてなしたら、族長はとても感激し、帰ると董卓に畜獣千頭を贈ったというほど慕われていました。

最終的にひどい人なのでお世辞にもいい人はあまり言えませんが。

③まぁ様々な資料から引っ張って作りました。

資料については他の人が書いてくれているので割愛します。

④ないです。

先ほども言ったよう、兄弟のように仲が良かったとはいえますが。







①正史に「桃園の誓い」の記述はありません。



②「すごくいい人」とは書かれていません。



実力者であったことは間違いありません。

しかし、政権をとっていた期間が短い人物は

どうしても悪く書かれるのが史書の常です。



ただ董卓は、「六郡良家子をもって羽林郎になった」

と書かれているので、文字通り良家の子でした。



良家の子は文官(官僚)を目指すのが普通ですが、

董卓は勉強よりも馬や弓の方が好きだったようで

羽林郎(皇居を守る騎馬隊の将校)という

エリート軍人(武官)になったようです。

その後も西方の反乱鎮圧などで活躍し、

入洛を促されたときには前将軍・幷州牧という高い地位にいました。



③『三国志』(西暦285年頃成立)は、

既にあった多くの史料(歴史書)から抜き書き、切り張り、

取捨選択して陳寿が個人(官撰ではなく私撰)で記したものです。



後に裴松之が注釈を付けたときに使用した史料が、

・王沈『魏書』

・魚豢『魏略』『典略』

・虞溥『江表伝』

・韋昭『呉書』

・郭頒『世語』

・張勃『呉録』

・習鑿歯『漢晋春秋』

・傅玄『傅子』

など200種以上あったことから、

散逸した資料などを鑑みても、

陳寿も少なくとも同等数の史料を参考にしたと考えられます。



■陳寿が参考にしたと思われる史料

・王沈『魏書』

・魚豢『魏略』『典略』

・韋昭『呉書』

など



もともと陳寿が執筆したのは、

「魏国志」「蜀国志」「呉国志」(あるいは「魏書」「蜀書」「呉書」)の三冊で、

後の人が三冊を纏めて「三つの国志」、

すなわち『三国志』と呼ぶようになりました。

この陳寿『三国志』が正史に加えられたのは後のことです。



因みに、『史記』もれっきとした正史です。

『史記』『三国志』のように初めは個人によって書かれ(私撰)、

後に朝廷から正史として採用されたものは、

二十四史(『新元史』『清史稿』を加えれば二十六史)のうち十史あります。



■私撰から朝廷に採用された正史

・『史記』

・『漢書』

・『後漢書』

・『三国志』

・『宋書』

・『南斉書』

・『魏書』(北魏書)

・『梁書』

・『陳書』

・『北斉書』



④補足

三人が「義兄弟」だったとは書かれていません。



劉備が故郷で徒党を集めたとき、

関羽と張飛は劉備の「護衛官」になったとあり、

二人に「兄弟のような恩愛をかけた」とは書かれています。

しかし、任俠主従だったので劉備と関羽・張飛は、

義兄弟というよりも親分子分の関係だったと思われます。



ただ、「張飛は関羽に兄事した」と書かれているので、

関羽と張飛は義兄弟であった可能性が高いです。





(※漢晋春秋さん、ご指摘ありがとうございます。)







①②ほんとじゃありません。

③中国で言うところの「正史」とは、ある王朝がその王朝の前の王朝までの歴史を書くこと、そしてそれが官により国家事業としてなされているもののことです。史記は司馬遷が父の代から個人的に書したものなので、正史ではありませんがそれに準ずる扱いを受けてます。漢の時代の正史は漢書です。

さて陳寿の三国志はれっきとした正史です。三国を統一した晋の国家事業として編纂されています。もともと陳寿は蜀(漢)の人で蜀滅亡後、晋の朝廷に仕官しました。ただ、陳寿のお父さんは例の街亭の戦いで、「泣いて馬謖を斬る」の馬謖の参謀をしていた人です。街亭の敗戦の責で丸坊主にされたりもしました。

ですから、陳寿本人として曹操や劉備が活躍した時代はおじいさんのころ、孔明、仲達のころはまさにお父さんの時代の話ですし官途についていいた父親からも話を聞く立場にあったから、かなり三国時代の空気的なものは感じられていたと思います。

それと国家事業なので陳寿が著者と言っても一人で書き上げたわけではありません。監修兼総責任者という立場で膨大な量の資料や口伝から取捨選択をしていったものと思われます。

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