三國志の質問です
1、袁術、袁紹は仲が悪いのですか?
2、袁術配下の楽就、陳紀、梁綱、橋ズイ、李豊、韓イン、袁紹配下の文遠(?
)、韓猛について、経歴、字等紹介していただきたく思います
Q1.袁術、袁紹は不仲?
A1.不仲だったとされます。
後漢末、袁家は名家でした。
そのなかでも、「袁紹」(兄)の評判が良かったものの、
彼は妾の子であり、
本妻の子である(とされる)「袁術」(弟)は、それが面白くなく、
自分こそが名門袁家の嫡流であると自認していたようです。
「正史」には袁紹と袁術の対立の理由は述べられていませんが、
袁術は当初から、
袁家が後漢帝国から簒奪して繁栄する事を目指していたようですが、
袁紹が皇室と同姓の「劉虞」を擁立しようとしたことから、
袁紹と袁術のいがみ合いが始まります。
優柔不断でお坊ちゃまの袁紹と、
自己中心的な考え方を持った袁術では、
所詮水と油だったのでしょう。
袁術は、皇帝を自称して結局は破滅の道を歩んでいきますが、
皇帝に成るだけの地盤と勢力.実力(?)を持ちながら、
結局躊躇して、機会を逸して破滅する袁紹。
対照的ですね。
袁術は、197年寿春で帝を僭称し仲氏と号しますが、
同盟を組んでいた呂布や、曹操と相次いで敗れ、
壊滅状態となり、
袁紹を頼るため帝位を贈った上、
袁紹の長子袁譚のもとに身を寄せようとした途中で発病。血を吐いて死にます。
絶交状態にあったとはいえ、最後には兄袁紹を頼らざるを得なかったのは、
ある種哀れですね。
袁術の蜂蜜好きなのは有名です。
Q2.袁術.袁紹配下の部将のプロフィール
A2.
『袁術配下』
名前が挙げられていませんが、袁術配下といえば、この人は外せないので
【紀霊(きれい)】生没年不詳。
紀霊は3万の軍を率い、小沛の劉備を攻撃しました。
呂布は紀霊と劉備の仲裁に出て、
遠距離にある戟の小枝(胡)に射当てたら軍を引き上げよ、と申し渡し、
見事そこに矢を当てます。
演義では、
重さ50斤の三尖刀の使い手として登場します。
関羽との一騎打ちで30合余り互角に戦いました。
最後は、張飛との一騎打ちで10合余り渡り合った後に討ち取られます。
【橋蕤(きょうずい)】生年不詳~197年
張勲と共に大将軍に任じられたとされます。
陳国に侵攻しますが、曹操に敗れ斬られました。
演義では、
曹操、劉備、呂布、孫策による袁術討伐が開始されると、
寿春を守備したものの、戦死しています。
【楽就(がくしゅう)】生年不詳~197年
197年、陳に残留しますが、
曹操に敗れ楽就他の3人と共に斬られました。
演義では、
曹操は寿春に攻勢を欠け、
李豊、陳紀、梁剛、楽就は守りますが陥落し、
4人の武将は全員斬首されました。
【陳紀(ちんき)】生没年不詳。
正史では、袁術が孫策に約束していた九江太守に任命する件を反古し、
代わりに任命されたのが陳紀です。
演義では、
呂布を討伐の際、陳宮率に迎撃され、敗れています。
寿春城の攻防戦でを曹操軍の猛攻の前に敗北し斬首されます。
【李豊(りほう)】生年不詳~197年
李豊・梁綱・楽就の3将で陳国に残留しますが、
曹操軍に敗北して戦死します。
演義では、
呂布に対して槍をとって立ち向かいますが、
呂布の画戟を利き腕に受け、敗走します。
寿春城の攻防戦でを曹操軍の猛攻の前に敗北し斬首されます。
【梁綱(りょうこう)】生年不詳~197年
演義では「梁剛」で登場します。
寿春城の攻防戦でを曹操軍の猛攻の前に敗北し斬首されます。
【韓胤(かんいん)】生年不詳~197年
呂布との同盟を結ぶため韓胤を派遣します。
呂布の娘を袁術の息子の嫁に縁談を申し入れますが、
捕らえられ、曹操に引き渡しされ斬首されます。
『袁紹配下』
【文醜(ぶんしゅう)】生年不詳~200年・・文遠?
袁紹が韓馥から冀州を奪う際、韓馥配下の関純を斬り殺します。
公孫瓚を一騎打ちで破って追撃。
趙雲と一騎打ちになり、五、六十合しても勝負がつきませんでした。
官渡の前哨戦で、顔良の仇討ち戦で孤軍奮闘し、
張遼を落馬させ、徐晃を撃退しますが、
関羽に討ち取られてしまいます。
正史では、誰に討たれたという記述は無く、文醜は乱戦のなかで戦死します。
【顔良(がんりょう)】生年不詳~200年
正史では、関羽は馬に鞭打って掛けつけ、
大軍の真っ只中で顔良を刺し、首を切り取って陣に戻ったとされます。
官渡では劉備と共に出陣し、
宋憲、魏続 を討ち取り徐晃を敗走させます。
しかし関羽に一刀に斬って落とされ、首を取られます。
【韓猛(かんもう)】生没年不詳
官渡の戦いで、
曹操軍の西方の交通を遮断する役目でしたが、曹仁に撃破されます。
さらに、袁紹軍の兵糧の運搬を警護する役目を担いますが、
輸送車を焼き払われます。
演義では、その件で袁紹の怒りを買い雑兵に降格されます。
とりあえず1についてだけ回答させて頂きます。
袁紹、袁術は異母兄弟で、袁術が嫡出子、袁紹は庶出でした。
しかし袁氏本家に跡継ぎがいなかった為、袁紹が養子に入って本家を継いだ為、
分家の嫡子(のちに当主)となった袁術と立場が逆転してしまいました。
袁術は庶子の袁紹が本家当主となったことを激しく嫌い、関係が険悪になったそうです。
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