三國志の質問ですが
最初劉備に仕えていたジョショは曹操に仕えてからどのようなキャリアを歩んだのでしょうか?
曹操に仕えてからは表舞台にでてきませんが魏ではその他大勢の一人に過ぎなかったのでしょうか?
徐庶は正史『三國志』の記述で御史中丞まで登った事が確認できます。これは魏の太和年間(227~233)に諸葛亮が聞き知った事になっていますので、徐庶も晩年になってからの話です。
そこまでの経緯は明らかになっていません。
さて、御史中丞という官職ですが、これは御史台の長官であり品佚は四品、俸禄は千石です。官吏を監察し弾劾する役職であり、持書執法、督軍糧執法、持書侍御史、殿中侍御史、三台・五都侍御史などの部下を持ちます。
つまり現代日本で言うなら検察庁のトップたる検事総長といったところでしょうか。尚書台をはじめとする三台や洛陽・長安・許都・ギョウ[業β]・ショウ[言焦]の五大都市にも部下を分駐させる事ができ、品佚や俸禄の割に強大な権限を有していると言えます。
つまり徐庶は参謀としてではなく官僚として魏に仕えていたのであり、『三国志演義』が語るように「心は劉備とともにあり、曹操のために献策しなかった」のでも、諸葛亮が嘆息したように「重く用いられなかった」のでもないのです。
曹操に仕えても
劉備への義を尽くす
カッコイイ~
被っているかもしれませんが、元々は劉備に仕えていました。
徐庶の策で敵の曹仁達を破りました。
そして曹操が劉備に策が得て、その人を誰かと聞きました
徐庶でした。
そこで曹操軍は徐庶を自軍に入れるため、母が捕まった と嘘の手紙を送ります。
徐庶が引っ掛って曹操の軍に降りました。
そして、母の所に会い行ったのですが、母は捕まっておらず、捕虜としてでは無かったのです。
徐庶が帰宅?すると、母が手紙を出していないことに気がつき、母が悲しみ、そして自殺してしまいました。
そこで、徐庶は曹操の軍には居るが、口は出しませんでした。
赤壁の戦いで、徐庶は連環の計を見破っていましたが、その事を曹操に伝えず、そのまま敗北しました。
こんな感じで宜しいでしょうか?
徐庶が曹操のもとでどういったキャリアを積んだかは曹操のもとへ行ってからは詳しい記述はありません。
ですが「右中郎将、御史中丞と出世した」と記述があります。
諸葛亮が北伐を開始した頃に徐庶について調べて御史中丞の地位にあるという報告を受けた時に
「魏はそれ程人材が豊富なのか?彼がこの程度にしか用いられないとは」と嘆いたとあります。
ですが諸葛亮は過大評価している気がします。
御史中丞と言う官職は四品官(数字が少ないほど上位の官職)という上位の官職でかなりの官職です。
人材の豊富な魏でそこまで出世したらたいしたものです。
詳しい記述は無いのですが順調に出世したようなので目立たないながらも的確な献策をしたんではないでしょうか?
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