諸葛孔明はなぜ漢詩を詠まなかったのでしょうか?
『出師表』(前・後)のような後世に残るような名文を残しながら
まったく現存していないのが、やはり了解しかねます。
もっとも『三国志演義』から派生した後世の作品には
詩を詠んだエピソードもありますが…。
敵であった曹操は『孫子』の注釈をつけるほどの軍略家である一方、
多くの素晴らしい漢詩を詠んでいます。
彼の息子の曹否は勿論のこと、
曹植などは神様扱いされていた時期があったと聞いたことがあります。
このギャップがどうしても理解できません。
推論で構いませんので、教えて頂けないでしょうか?
今でこそ、文学は評価されますが、当時(後漢末~三国)においては【詩や小説などはまったく評価されません】でした。
諸子百家の思想書(特に儒家の書)が評価され、次いで史書が評価されていました。
「詩経」は?と疑問に思われるかもしれませんが、これは儒家の経書にあたります。文学作品の扱いではありません。
董仲舒の献策により設置された【五経博士】の【五経】が【「易経」「書経(尚書)」「詩経」「春秋」「禮記」】なのです。
これまで低い評価だった「文学」を評価しだしたのが、曹操・曹丕・曹植の【三曹】であり、そのもとに才能を発揮したのが「建安七子」なのです。
それがより芸術性が高まったのが、貴族が生まれた六朝時代(魏晋南北朝の南朝)なのです。
ですから、【曹操らと同時代の諸葛亮は詩を詠まなかった】のでしょう。
因みに「出師の表」は、今でこそ文学作品扱いですが、諸葛亮自身はそんな気持ちで残してはいません。劉禅に宛てた上奏文ですから。名文なのですがね。【※後出師の表は偽作と言われています。】
●参考までに
金文京「中国の歴史②三國志の世界」講談社
渡邉義浩「図解雑学三國志」ナツメ社
「梁父吟」は孔明作の詩とされてます。異説はありますけど。
就職後の忙しい中では詩なんて詠んでられないかもしれませんが、
隆中で隠棲していた頃とかは詩の一つや二つ詠んでいるとは思います。
ただ単に、作ったけど後世に残らなかっただけじゃないですかね。
ボクは小学生ですが…
何を言ってるんですかね、漢詩、つまり五言律詩、五言絶句の形式は8世紀唐代に完成したということは小学生でも知っているでしょう。
孔明がいくらワークホリックでも600歳まで働いたら、死にそうになるんじゃないか?
詩は春秋時代から誰でも書いたでしょ?楚辞は詩は詩だけでも自由詩でしょ、形式としては。
好みの問題もあるだろうが,文帝の詞は漢詩の形式をとってない以上に詞という趣もないようだが…
それはさておき、孔明が詩作をしなかったといいますが、ある意味、出師の表も詩と言えるしね。
あれで、漢詩まで名人なら
スーパーマンですよ。
饅頭とか、六曜(大安、仏滅)・戦の開始日時の占い、
とかも孔明の発案と言われてますから
漢詩にふける余裕なく、軍師としての仕事に専念していたということでは?
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