2012年3月20日火曜日

三国志に詳しい方。 教えてください。

三国志に詳しい方。

教えてください。

赤壁の戦いで、連合軍(同盟軍?)が勝ったのは、東風が吹いたからですよね?

つまり、時の運で間違いないですか?

もしも、曹操がこの前日にでも総攻撃かけていたならば、曹操軍の勝ちでしたか?







諸葛亮(孔明)が東南の風を呼び、それで孫権と劉備の連合軍が勝った…というのは、明の時代の始め頃(14世紀末)に成立した『三国志演義』という小説での話です。

つまり、フィクションなんです。



実際の三國時代を記録した歴史書『三國志』では、確かに周瑜率いる孫権軍は火攻めによって曹操の軍を撤退させましたが、東南の風が吹いたという記述は特にありません。



赤壁の戦いは208年の12月~209月の1月にかけて、つまり冬ですので、風は北風が吹くというのが北半球における常識でしょう。

しかし長江流域は、現代では偏西風が大きく蛇行しながら吹く地域である事が解っています。つまり、冬であっても場所によっては南から北に向かって風が吹くのです。

であるならば、長江流域に生まれ育った周瑜や黄蓋は生活の知恵としてそれを知っていたはずで、別に孔明の力を借りなくても火攻めはできたはずだし、風が吹くのも1日だけではなかった、という事になります。



ちなみに孔明を含む劉備軍は、周瑜が連れてきた3万の軍勢をあまりに少ないと感じ、後詰めの形で後方に待機してじっとしていました。

つまり実際の戦闘では孔明はもちろん劉備軍(関羽・張飛・趙雲含めて約2000)は何もしていないのです。



ところで、曹操軍の総勢が80万というのも『三国志演義』での設定です。確かに歴史書のほうの『三國志』でも、曹操が孫権に送った降伏勧告の手紙に「水軍80万を整えて、将軍(=孫権)と呉の地で狩りをいたしたい」と書いた…となっています。

しかし実際にはこの時の曹操には80万の軍勢を揃える事も維持する事もほとんど不可能であり、実際は多くても十数万だっただろう…と言われています。

しかしその大半は慣れない風土に苦しみ疫病が蔓延しており、まともに戦えたのはかなり少なかっただろうと推定されています。








東風が吹いたと言われれば、吹いていたかもしれませんが、諸葛亮孔明が吹かせたというのは物語ですよね。

その他挙げられる曹操軍の敗因は、疫病、慣れない風土、水軍の技量の差そして、なにより十ちゅう八九勝ち戦だと思っていた油断ではないでしょうか?

前日の総攻撃も、たらればですので難しいですが、お互いに万単位の兵の場合、数より質だといえます。なによりそれを率いる将の差が大きいとみると、水上戦で終われば呉、水上戦後の陸上戦になってしまえば、魏かなと思います。







曹操はまさか東南の風が吹くとは思っておらず、それに黄蓋やら甘寧やらの裏切りを待っていましたので、前日に攻撃しようとは思っていなかったはずです。

まあでももし曹操がそれを無視して前日に攻撃すれば曹操が勝ったでしょう。

そのとき曹操は調子に乗って酒宴ばかり催していたため、悠長なことしていたんだと思います。

周喩らは運も味方につけて勝ったんだといえます。







大勝の理由は「東南の風」(退却のタイミングを見誤ったという意味では時の運ともいえなくはない)

勝利の理由は「疫病の流行」(風が吹かなかった場合でも、曹操軍は退却せざるを得なかった≒どちらかと言えば地の利)







おそらくそうなったでしょう。



ですけど歴史での「もしも」話はきりがないでしょうから。。。



東風を予知した孔明と、それを信頼して実行した孫権の勝利ですね。



日本人が好きそうな話題です。

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