三国志について知ってることを何でもいいので教えてくださいm(_ _)m
日本で知られている三国志には2種類あります。
ひとつは西暦290年頃、三国志の時代の後に興った晋(西晋)という統一国家に仕えた陳寿(ちんじゅ)という人が書いた歴史書の『三國志』です。
もうひとつはそれから約千年後の西暦1400年頃に、羅貫中(らかんちゅう)という人が歴史書の『三國志』や民間伝承などを元に書き上げた小説である『三国志通俗演義』です。
陳寿は三國時代の蜀に生まれ、一度蜀に仕えたあと晋に登用され歴史を扱う官職に就きました。そして独力で『三國志』を書き上げたと言われています。
しかし、信憑性の薄い噂話や俗説のたぐいを極力切り捨てて信頼性の高い記事を簡潔にまとめようとしたため、内容は高く評価されましたが読んで味気なくなってしまいました。それを残念に思った後世のある国の皇帝が、裴松之(はいしょうし)という人に注釈をつけるよう命じます。裴松之は『三國志』本文にほぼ匹敵するほどの膨大な文字数を使って異説や伝承を書き記し、今日では『三國志』と『裴松之注』は切っても切り離せない状態になっています。
一方の『三国志通俗演義』は成立年代や作者に異説もありますが、民衆に広く受け入れられ、日本にも伝わって大勢の人に読まれています。現代日本で三国志と言えば、通常はこちらの『三国志通俗演義』の方を指すほどです。
また小説ですから、後の作家が自分の解釈を組み込んだ、新たな『三国志演義』をたくさん派生させました。日本では独自の設定をふんだんに盛り込んだ吉川英治氏の『三国志』と、そのコミック版である横山光輝氏の『三国志』が有名ですし、登場人物を美少女にしてみたり、タイムスリップした日本の中学生を絡ませてみたりと、色んな作品が登場しています。
三國志(所謂正史)は魏から帝位を譲り受けた晋代に編纂されました。
晋という一つの王朝の公認とするには、王朝の正当性を認めるために、魏を主軸にすえなければなりませんでした。
しかしながら、作者は蜀漢にいたのでどうにか蜀漢が正当性のある国であると思っていました。
そこで表面的には魏を主軸にすえつつ、且つ蜀漢が引き立つように描きました。
呉は漢の劉氏である劉備や、漢から帝位を譲り受けた魏と違い、その地方にいた豪族を束ね勢力を伸ばした孫氏が勝手に帝位を称した国として世間の評価は、魏、蜀漢に劣ります。
日本では、蜀の劉備玄徳が人気がありますが、中国では、魏の英雄・曹操孟徳の方が人気があると聞いたことがあります。ちなみに、横浜中華街の一角に、蜀の関羽の像がまつられています。
後漢の時代の物語で、三国とは、魏(曹操)呉(孫堅)蜀(劉備)の話です。曹操は漢の末期に黄巾族の反乱に対しての討伐軍から台頭し、魏を名乗りました。蜀の劉備は漢の末裔という事で、漢の再興を志して長い流浪生活をしますが、三礼三顧の礼で、諸葛亮孔明を軍師に迎え、天下三分の計(二国だとつぶし合いになるため、三国で均衡を保つ)という戦略に持ちこみます。これが三国志と言われるようになりました。蜀は漢の再興を。魏は曹操が王になり中国制覇をというような話ですが、蜀の劉備が死に、息子の劉禅が平凡であったため、諸葛亮や超雲に負担がかかり、諸葛亮も没します。必然、呉と魏が残りますが、呉も陸遜等優秀な武将がいましたが、多勢に無勢で魏の司馬愇という軍師が台頭し、司馬愇が中国を平定した・・・・こんな話じゃなかったかと。
三国志は、後漢の時代から三国時代の話ですが、作者が劉備を主人公(正義)と見立てているので、
曹操(魏)を悪とみなしています。
あと劉備が)死んだ後も諸葛亮をベースに物語は続きます。
漫画だと読みやすいですよ!
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