私は三国志の【陸遜】が
すごく大好きなのですが,
陸遜のお嫁さんっては
孫策と大喬の娘さんですよね。
でもどこを見てもその
娘さんの名前が載って
ないのですが‥
分かる方,お願いします!
教えてくださいっ!!
多分孫策と大喬には娘が
2人いたような文を
見つけたのですがそれも
曖昧でよくわからないのです‥
すごく気になっています!
回答よろしくお願いします。
残念ながら、陸遜の妻は名前が分かっておりません。ていうか「孫権が、兄孫策の娘を陸遜の妻として与えた」と正史『三國志』に書かれているだけで、名前はおろかどんな女性かも一切分かっていないんです。
でも、ひとつだけ分かる事があります。
彼女は、孫策と大橋との間に産まれた娘ではない、という事。
陸遜好きの質問者さんには夢を壊してしまうようで大変心苦しいんですが、これだけは確定です。
その理由をご説明しましょう。
正史によると、孫策が皖城の劉勲を討って「橋公の2人の娘」を得たのは、袁術の死後のことです。
袁術が死んだのは西暦199年。孫策が死ぬ前年です。つまり孫策と大橋が夫婦だったのはわずかに1年に満たないのです。
一方、陸遜が妻を得たのは、21歳の時に孫権の元に出仕してからです。正史『三國志』陸遜伝を見ると、陸遜が生まれたのは西暦183年。数えで21だと出仕が203年という事になります。
孫権は陸遜の出仕を喜び、孫策の娘を妻として与えています。
さて、ここで問題です。
孫策と大橋に娘がいたとして、西暦203年に何歳になるでしょう?
…もうお分かりですね?そんな幼児と結婚できるはずがないのです。
さらに言えば、わずか1年弱の結婚生活だった孫策と大橋との間に娘が2人いた…というのも物理的に不可能な話で、あり得ないという事になります。
では、陸遜と結婚した娘は何歳だったのか。
孫策の初陣は数えで17歳の時です。通常、初陣は成人して一人前の大人として認められなければできません。これを「加冠」と言います。成人の証として髷を結い、冠を被る(加える)のが加冠です。
よって孫策は少なくとも17歳までに成人していたと考えられます。
さらに、孫策は後漢の将軍として活躍した孫堅の長男ですから、そういった高官の子弟は加冠と同時に結婚するのが通例です。つまり孫策は数えで17歳、西暦191年には正妻を迎えていたと思われます。
そう、孫策が結婚したのは大橋だけではなかったのです。というより、大橋は正妻ではなく、孫策の妾の1人に過ぎなかったのです。
まあそれはさておき、仮に孫策が西暦191年に結婚していたとすると(実は正妻を迎えたという記事は書かれてないのでハッキリしません)、早ければ翌192年には子供が生まれます。これが女の子であれば203年には数えで12歳。これでもまだ結婚するにはやや早い年齢ですが、当時の女性は10代前半で婚姻するケースも多々見られますから、あり得ないケースでもありません。
ずいぶん推測と仮定が入ってますが、このように考えると当時の常識的にも辻褄が合いますし、大筋で間違ってはいないだろうと個人的には考えています。
陸遜の妻は孫策の長女で、その母は大橋ではなかった。そういう事なんです。
余談ですが、元末明初の小説である『三国志演義』では江東の二名花として登場する大喬・小喬ですが、上述したように正史では「橋公」の娘となっており、実際は「大橋」と書くのが正しかったりします。決して書き間違いじゃないんですよ(笑)。
えーと、女性の名前はほとんど記録に残らないし(大喬小喬ってのも喬公の娘って意味合いしかないと思う)、陸遜の妻も大喬との間の子供かどうかさえはっきりしません。孫策と大喬は約1年ほどしか結婚生活を送っていませんが、正史では知ってる限りだと孫策の子供は1男3女いることが確認できます。つまり孫策の子供のうち大喬との間に生まれた子供は1人、多くて2人だけ。2人だとしたらよっぽど大喬は頑張ったことになりますね。
で、孫策の子供の中で名前が分かってるのは息子の孫紹だけです。ちなみに娘はそれぞれ陸遜、顧邵(顧雍の息子)、朱紀(朱治の息子)に嫁いでいます。当然名前は不明です。
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